タグ:左京区 ( 21 ) タグの人気記事

市原の愛宕灯籠、追加

市原の里にもまだありました。
前々から見つかってはいたのですが、さすがにこれは愛宕じゃないよね、と見切っていたのです。
何となく雰囲気が怖くて、電話から写真データごと削除していました。
インスタグラムを介して情報提供をしてもらったのをきっかけに再度撮りに行ってきました。

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585_左京区静市市原町


方々あちこちで色々な愛宕ものを見た結果、久々にこれを見ると完全なる愛宕でした。
そもそもすぐ近くの45_によく似ているし。
おまけに目の前を歩いていた年配のご婦人に、5月頭くらいにお札をかえてもらったばかりという話まで聞くことができました。
なんか、経験値上がったなー。




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by fdvegi | 2018-06-28 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

岩倉の西側の愛宕灯籠、また追加

岩倉の西側にまだありました。
それも、思いがけず主要道に面しております。
さすがにこれで全部だと思います。
小さな岩倉集落(西側)に本当にたくさんあったものです。

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584_左京区岩倉上蔵町





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by fdvegi | 2018-06-22 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

花脊の愛宕灯籠

幡枝人さんから情報提供いただきました。
驚きの花脊。

松上げあるところ灯籠なし、の理論で行くと花脊に愛宕灯籠はないはずでした。
が、ありました。
しかし、幡枝人さんがすでに先回りして、松上げをしているのは花脊でも八桝という場所で、この灯籠がある別所というところは、同じ花脊でも南側だと教えてくれたのです。
なるほど!

そういうわけで、鞍馬の奥の奥の奥へとえんやこら行ってきました。
九十九折りという言葉そのままの、すごい道。
すごい道の先に集落あるのも驚きでした、ほんとに。

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458_左京区花脊別所町


この灯籠です。
大工さんがちょうど隣の祠を修理していたので聞いたところ、元々はもう少し北の不便なところにあったそうです。
それを移して来られたそうで、周辺にはもう愛宕灯籠はないということでした。

まさに最果ての灯籠であり、山ごと焼くという愛宕信仰の原形に最も近い位置にある灯籠です。
松上げの残り火がここで灯籠に移されたのだと、そう虚構化したいレベル。
お札箱の装飾も、鞍馬二ノ瀬市原岩倉へと南へ受け継がれていきます。

実に興味深い。




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by fdvegi | 2018-04-13 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

旧田中村の愛宕灯籠

出町柳を拠点駅とする叡山電鉄、略して叡電に「元田中」という駅があります。
変な名前だなと思っていたら、すぐ近くに田中神社という有名じゃないけど大きな神社があるのでした。構えなんかもかなり立派です。孔雀までいます。
創建は863年という話もあるそうで、めちゃくちゃ古いです。

そして、田中神社の辺りを昔は田中村といっていました。
日文研に古地区データベースがあるのですが、そこに収蔵されている「古今都細見之圖」という地図にも「田中村」として登場しています。

地図の成立が江戸時代の1860年初期で、地図の内容は平安から鎌倉時代だそう。
また、「中古京師内外地図」という別の古地図では「田中ノ里」になっています。
こちらは同じ江戸時代の1750年に成立し、平安から安土桃山時代の様子を描いているとのこと(千年くらいあります。一枚の地図に描くにはレンジが長すぎじゃないでしょうか)。

古地図というのも難しいものですね。
常に現時点を描くわけじゃない、という、そりゃそうか的なことに改めて気づかされます。
そうやって世界は複層的になっていくのですね。

まぁとにかくそういうわけで、元田中駅の付近は旧田中村というところで、非常に古い歴史を持っているということです。
そこにありました。
ガガーン!

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447_左京区田中里ノ内町


何がショックかって、その目と鼻の先を毎朝毎夜のように通っているのです。
何ならその通りを通ったことだってあったような気がします。
なのに気が付かなかった!
気が付かないまま8か月もの間、奈良やら滋賀まで足をのばしていたなんて!ギャー!

と別に叫ぶことではないのですが、これにより東大路通にまで接近してまいりました。
総合的に見て何が一番都心に近いかはおいておくとして、従来、愛宕空白地帯の最東端は北白川の058_だったのです。
それが、これで一気に縮まりました。

現代的には北白川の近くという印象なのですが、昔の北白川というのはそりゃもう段違いの僻地、山中越えの入り口で、文化的・精神的な隔たりは相当なものだったんではないかと想像されます。

世界はまことに一筋縄ではいきません。

なんて思っていたら、もっと近くにありました。
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450_左京区高野清水町

川端通りから遠目に見えます。
遠目に見ながら、コインパークの精算機かな、なんて思ってました。
なんてこったい、イチから出直しだ。


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by fdvegi | 2018-04-09 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

修学院の愛宕灯籠、追加

修学院、赤山禅院のすぐ近く、極めて頻繁に前を通りがかっている灯籠です。
お地蔵さんと一緒に並んでいるので、お地蔵さん用の石灯籠だと頭っから思い込んで確認もしておりませんでした。
近くにある明確な愛宕灯籠とは様式・形式も著しく異なっているし。

しかし、宇治川沿いの386_など、地蔵と一緒にある石灯籠にもよくよく見ると「愛宕」の何かが彫られているというケースが散見され始めまして、ちょっと目を凝らしてみました。

するとどうでしょう。
うっすらと浮かび上がる「愛」の文字。の名残。っぽいもの。
最近になって遂に協力的な場合も出てきた妻子による「愛宕判定」の結果、承認となりました。

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408_左京区修学院脇馬場町

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by fdvegi | 2018-02-18 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

鞍馬の愛宕灯籠、追加

鞍馬です。最初に探しに行った段階で愛宕っぽい425_のお札箱は見つかっていたいのですが、肝心の灯籠がないのでスルーしておりました。

しかし考えてみれば、一乗寺の101_や、堅田の280_も灯籠自体はないのですよね。
堅田には「愛宕」という確証がある一方、一乗寺に至っては限りなく愛宕的痕跡は薄いわけで、うん、考えた結果、鞍馬を三度訪れまして写真を撮ってきました。

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425_左京区鞍馬本町


ところで、西幡人さんへの返信で長々と書いた通り、鞍馬における民族と文化多様説を勝手に唱えております。
具体的には、鞍馬の人の出自は瀬戸内海ではないか、という憶測です。憶測ですよ。
文化庁のポータルサイト文化遺産オンラインに、「厳島・鞍馬図」が取り上げられています。

色々と不祥なのはいいとして、どうして厳島と鞍馬なのかが全く触れられていません。
厳島の相手は誰でもいいのだ、と書いてあるのみで、それが鞍馬であることはスルーされています。このスルーっぷりに、えも言われぬ因縁を感じてしまいます。

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255_左京区鞍馬本町


そして、鞍馬サイドにある瀬戸内海の痕跡が、この岩神灯籠だとするのが本ブログならではの灯籠的見解です。
鞍馬の最も奥に当たる255_は二度目に鞍馬に行って写真を撮ってきた岩神灯籠で、灯籠ばかりクローズアップしておりますが、全体として、南を向きの遥拝所の体をなしているようにも見えます。

で、南に何があるかというと、3kmほど下った松ヶ崎というところに「末刀岩上神社」という神社があります。
この神社は天然の岩がご神体なのですが、その神石というのが、昔、播州兵庫の海中で霊光を発していたものをわざわざここまで持ってきて祀ったのだと伝えられています。

海の中の大きな岩を本当に京都の山寄りまで運んできたとはさすがに考えづらく、実際のところは、精神的なつながりを表現しているのではないかと思われます。

つまり、鞍馬で松ヶ崎を拝み(遥拝)、松ヶ崎でジャンプして(神石の勧請)、遠き魂のふるさと瀬戸の海に思いをはせているのではないか、そういう事です。

鞍馬でも特に標高の高い奥まったところの人は、元々、瀬戸内海の人々だった。
そして遠い故郷に思いをはせていたところ、市原や二ノ瀬といった陸伝いの下の方から人々がやってきて、それと一緒に愛宕信仰もやってきた。

そのため、鞍馬の比較的南側には愛宕灯籠があり、北側には岩神灯籠がある。
時間が経つにつれて混然一体としてきて、岩神灯籠も愛宕灯籠として運用され始めて、212_には愛宕お札箱が備わっている。

一口に愛宕灯籠といっても石灯籠もあれば木製の灯籠もあり、そのお札箱も石製と木製とでは様式が異なり、岩神灯籠は岩神灯籠でお札箱があるものとないものがある上、そのお札箱は、愛宕灯籠に付帯のお札箱の中でも木製灯籠にセットの方、という、もう実に奇妙奇天烈に入り組んだ状態です。

この入り組み具合をもってして民族と文化多様説と銘打っております。
全部はずれかもしれません。




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by fdvegi | 2018-02-12 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

京都市内北寄りの愛宕灯籠、追加

当ブログのコメントで幡枝人さんに情報提供いただきました。


一つ目は勇身八幡宮という小さな神社の門前にありました。
この勇身八幡宮という神社は創祀や由緒等は不明なようです。
初代の征夷大将軍である坂上田村麻呂について『坂上田村麻呂伝記』という本があるそうで、その中に田村麻呂を評して「武芸称代 勇身踰人 辺塞閃武。 武芸はあたいにかない 勇ましい身は人をこえる 辺塞にあって武を閃く」という記載があるとのこと。
この「勇身」を頼りに、坂上田村麻呂の個人的な祀りの跡という推測が、ネット上では行われています。
そのことと愛宕灯籠との関係は不明です。

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388_北区上賀茂深泥池町

ただ、愛宕神社というか愛宕山はもともと地蔵信仰をしていたようで、地蔵にもいろいろと種類がある中「勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)」というのを祀っていたそうなのです。
読んで字のごとく、これに祈れば戦に勝つという地蔵で、鎌倉時代以後、武家の間で信仰されたとのこと。
明智光秀が本能寺の変の前に愛宕山へこの勝軍地蔵を訪ねたのは、わりと有名な話です。

というわけで、武勇の男・坂上田村麻呂と勝軍地蔵とがリンクした結果としての、この場所の愛宕灯籠ではないかと思われます。
鞍馬街道沿いでもあり、灯籠文化が実を結んだのではないでしょうか。
京都市北寄り(というか鞍馬街道の深泥池付近)、地味ながら相当なかなか面白い場所です。

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393_左京区岩倉幡枝町


もう一つあったのが、左京区の幡枝です。「はたえだ」と読みます。
岩倉地区の一部なのですが、岩倉中心部からはだいぶ離れており、どう考えても同じ文化圏とは思えず、岩倉からは分けました。
47_と60_とのバランスを考えると市内北寄りにカテゴライズするのも難しいというか、本来的には、59_と183_と新たな388_とのセットで「鞍馬街道沿い」とでもすべきところなのでしょう。
この道が鞍馬街道であることも、正直、当ブログのコメントで幡枝人さんに指南いただくまでは意識に上がっておりませんでした。不覚。

二ノ瀬に調査へ行く際にこの道を通っており、その存在も気が付いていたのですが、「愛宕」の文字がないので見切っておりました。
しかし、幡枝人さんによると、西幡枝ではこれを愛宕灯籠として運用されているとのこと。ぉおー。
地元民コメント最高です。

もともと愛宕灯籠でないものを愛宕灯籠として使う、という実例もゲットすることができました。
鞍馬の岩神灯籠でもこの運用が行われていたという説が、純然たる邪推・推測から、ちょっとだけ可能性に近づいた気がします。
嬉しい。




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by fdvegi | 2018-01-08 00:30 | 京都在住 | Comments(2)

岩倉の愛宕灯籠、追加

すいません、まだありました。
岩倉(西側)

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369_左京区岩倉忠在地町

さすがにもうないんではないでしょうか。
どうだろう。。


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by fdvegi | 2017-12-29 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

一乗寺の愛宕灯籠、追加

灯台下暗し。
一乗寺で見つかりました。
しかも、一番最初の頃に見つけた003_から5歩くらいの場所です。
移設でしょうけど、そんなに近いのって、まぁないです。
しかも、薬師堂という施設の敷地内。
北白川の薬師堂にはなかったので油断しておりました。
お恥ずかしい。


しかしそれにしても、この発見によって100_、321_、003_、が一直線につながりました。
その延長上にある101_は、やっぱり愛宕灯籠の名残・遺構なのではないでしょうか。

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321_左京区一乗寺堀之内町



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by fdvegi | 2017-11-20 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

岩倉の西側の愛宕灯籠

岩倉には東側にしか愛宕灯籠がない、と言っておりましたが大いなる誤りでした。
西側にもありました。
そして、西側とはつまり岩倉実相院の周りを念頭に置いていましたが、岩倉実相院よりも南側にたくさんありました。小一時間歩いて約10基。釣果でいえば入れ食いです。
総数でいうと、あの広大な大原、左京区のラスボスをさえ上回っています。
これは奇怪。


それで初めて岩倉について少し調べました。ネットサーフィンだけど。
そしたらとても興味深いことがわかりました。
近くに住んでいるのに全然知らなかった。
京都・岩倉を歩く─精神病患者と共存した町(前編)(後編) というサイト :

江戸時代の18世紀末にはもう、多くの精神病患者が岩倉を訪れるようになっていて、そういう患者のための茶屋などができていたという。明治時代になると、精神病患者を預かる保養所ができ、さらに村の多くの民家でも精神病患者を預かるようになっていく。
(略)
岩倉に預けられた精神病患者は、高貴な家や大会社の創業者一族などの子どもも多く、なかには精神病だけではなく、さまざまな事情で生家では育てられない人も含まれていた。
(略)
たいした産業もなかった岩倉の村は、精神病患者や里子を預かり、その生家からお礼を受け取ることで生計が成り立っていた。

18世紀末が仮に1790年だとしても、そこからなお80年ほど江戸時代が続く(~1867年)、そういうタイミングです。80年というと64年続いた昭和よりも長いわけですから、すごい期間ですね。
そして、明治になると民家でも患者さんや、訳アリの里子を預かっていたという。
預け元の家庭からお礼を受け取っていて、預け元の中には富裕な一族もいた、と。

ここから先は完全に勝手な推測なのですが、愛宕灯籠が林立する2つの要素があったのではないかと思うのです。
・精神病患者が多い岩倉では、一般的な集落や村よりも、夜間の明かりに対する要請が高かった。
これは患者さんのためでもあり、住民のためでもあったでしょう。
・訳アリな預け元の中には、預け先の生計を維持した上でなお余裕が出るくらい多くの謝礼を支払っていたところもあった。
結果的にこれが愛宕灯籠という形になったのではないか。

今回、追加で多くの灯籠が発見された一帯は、引用した中にある保養所の後身である岩倉病院の南東側で、病院からみると少し坂を下りた人里ということになります。
その辺りで特に常夜灯へのニーズが高かったというのは、わりと腑に落ちる仮説ではないかな、という気がしています。

そして、岩倉という地名って恐らく「磐座」が元で、大きな岩自体が神格化されたり、神様の降りてくる場所とされています。
山住神社というところがそれで、なるほど大きな岩がありました。
磐座自体は日本中のいたるところに結構たくさんあるのですが、それぞれの岩のあり様は千差万別です。

山住神社の岩は何ていうかな、当日の気候や日の傾き加減もあると思のですが、「独立不遜・孤高の大岩」という感じではないのですよね。
覆いかぶさって包んでくるような、微妙なほの暗さをたたえておりました。
引用したサイトでは、岩倉の地から見える比叡山の稜線の優しさにポイントを置いていましたが、ぼくとしてはむしろ、この磐座のあり様こそが岩倉マインドの骨格をなしているんではないかと思っています。

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291_左京区岩倉西河原町

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292_左京区岩倉下在地町

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293_左京区岩倉西河原町

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294_左京区岩倉上蔵町

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295_左京区岩倉西河原町

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296_左京区岩倉中在地町

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297_左京区岩倉忠在地町

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298_左京区岩倉忠在地町

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299_左京区岩倉忠在地町

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300_左京区岩倉西河原町

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301_左京区岩倉下在地町


それにしても、「洛北岩倉と精神医療」を読んでみたいと思いました。
それと、やっぱりちゃんと灯籠の設置時期の確認をしないといけないな、と。

あと、東側の愛宕灯籠たちとこの西側の灯籠たちって、関係あるのかな。
現状の地図に照らすと、なんだか岩倉中通りを挟んで別々の文化圏になるような感じがします。
叡山電鉄の線路を挟む南北では絶対違うような気がするし、小さなエリアでありながら岩倉、なかなかに興味深い土地だなと、再発見させていただきました。




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by fdvegi | 2017-11-09 00:30 | 京都在住 | Comments(6)