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修学院の愛宕灯籠、追加

修学院、赤山禅院のすぐ近く、極めて頻繁に前を通りがかっている灯籠です。
お地蔵さんと一緒に並んでいるので、お地蔵さん用の石灯籠だと頭っから思い込んで確認もしておりませんでした。
近くにある明確な愛宕灯籠とは様式・形式も著しく異なっているし。

しかし、宇治川沿いの386_など、地蔵と一緒にある石灯籠にもよくよく見ると「愛宕」の何かが彫られているというケースが散見され始めまして、ちょっと目を凝らしてみました。

するとどうでしょう。
うっすらと浮かび上がる「愛」の文字。の名残。っぽいもの。
最近になって遂に協力的な場合も出てきた妻子による「愛宕判定」の結果、承認となりました。

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408_修学院脇馬場町

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by fdvegi | 2018-02-18 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

鞍馬の愛宕灯籠、追加

鞍馬です。最初に探しに行った段階で愛宕っぽい425_のお札箱は見つかっていたいのですが、肝心の灯籠がないのでスルーしておりました。

しかし考えてみれば、一乗寺の101_や、堅田の280_も灯籠自体はないのですよね。
堅田には「愛宕」という確証がある一方、一乗寺に至っては限りなく愛宕的痕跡は薄いわけで、うん、考えた結果、鞍馬を三度訪れまして写真を撮ってきました。

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425_左京区鞍馬本町


ところで、西幡人さんへの返信で長々と書いた通り、鞍馬における民族と文化多様説を勝手に唱えております。
具体的には、鞍馬の人の出自は瀬戸内海ではないか、という憶測です。憶測ですよ。
文化庁のポータルサイト文化遺産オンラインに、「厳島・鞍馬図」が取り上げられています。

色々と不祥なのはいいとして、どうして厳島と鞍馬なのかが全く触れられていません。
厳島の相手は誰でもいいのだ、と書いてあるのみで、それが鞍馬であることはスルーされています。このスルーっぷりに、えも言われぬ因縁を感じてしまいます。

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255_左京区鞍馬本町


そして、鞍馬サイドにある瀬戸内海の痕跡が、この岩神灯籠だとするのが本ブログならではの灯籠的見解です。
鞍馬の最も奥に当たる255_は二度目に鞍馬に行って写真を撮ってきた岩神灯籠で、灯籠ばかりクローズアップしておりますが、全体として、南を向きの遥拝所の体をなしているようにも見えます。

で、南に何があるかというと、3kmほど下った松ヶ崎というところに「末刀岩上神社」という神社があります。
この神社は天然の岩がご神体なのですが、その神石というのが、昔、播州兵庫の海中で霊光を発していたものをわざわざここまで持ってきて祀ったのだと伝えられています。

海の中の大きな岩を本当に京都の山寄りまで運んできたとはさすがに考えづらく、実際のところは、精神的なつながりを表現しているのではないかと思われます。

つまり、鞍馬で松ヶ崎を拝み(遥拝)、松ヶ崎でジャンプして(神石の勧請)、遠き魂のふるさと瀬戸の海に思いをはせているのではないか、そういう事です。

鞍馬でも特に標高の高い奥まったところの人は、元々、瀬戸内海の人々だった。
そして遠い故郷に思いをはせていたところ、市原や二ノ瀬といった陸伝いの下の方から人々がやってきて、それと一緒に愛宕信仰もやってきた。

そのため、鞍馬の比較的南側には愛宕灯籠があり、北側には岩神灯籠がある。
時間が経つにつれて混然一体としてきて、岩神灯籠も愛宕灯籠として運用され始めて、212_には愛宕お札箱が備わっている。

一口に愛宕灯籠といっても石灯籠もあれば木製の灯籠もあり、そのお札箱も石製と木製とでは様式が異なり、岩神灯籠は岩神灯籠でお札箱があるものとないものがある上、そのお札箱は、愛宕灯籠に付帯のお札箱の中でも木製灯籠にセットの方、という、もう実に奇妙奇天烈に入り組んだ状態です。

この入り組み具合をもってして民族と文化多様説と銘打っております。
全部はずれかもしれません。




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by fdvegi | 2018-02-12 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

京都市内北寄りの愛宕灯籠、追加

当ブログのコメントで幡枝人さんに情報提供いただきました。


一つ目は勇身八幡宮という小さな神社の門前にありました。
この勇身八幡宮という神社は創祀や由緒等は不明なようです。
初代の征夷大将軍である坂上田村麻呂について『坂上田村麻呂伝記』という本があるそうで、その中に田村麻呂を評して「武芸称代 勇身踰人 辺塞閃武。 武芸はあたいにかない 勇ましい身は人をこえる 辺塞にあって武を閃く」という記載があるとのこと。
この「勇身」を頼りに、坂上田村麻呂の個人的な祀りの跡という推測が、ネット上では行われています。
そのことと愛宕灯籠との関係は不明です。

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388_北区上賀茂深泥池町

ただ、愛宕神社というか愛宕山はもともと地蔵信仰をしていたようで、地蔵にもいろいろと種類がある中「勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)」というのを祀っていたそうなのです。
読んで字のごとく、これに祈れば戦に勝つという地蔵で、鎌倉時代以後、武家の間で信仰されたとのこと。
明智光秀が本能寺の変の前に愛宕山へこの勝軍地蔵を訪ねたのは、わりと有名な話です。

というわけで、武勇の男・坂上田村麻呂と勝軍地蔵とがリンクした結果としての、この場所の愛宕灯籠ではないかと思われます。
鞍馬街道沿いでもあり、灯籠文化が実を結んだのではないでしょうか。
京都市北寄り(というか鞍馬街道の深泥池付近)、地味ながら相当なかなか面白い場所です。

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393_左京区岩倉幡枝町


もう一つあったのが、左京区の幡枝です。「はたえだ」と読みます。
岩倉地区の一部なのですが、岩倉中心部からはだいぶ離れており、どう考えても同じ文化圏とは思えず、岩倉からは分けました。
47_と60_とのバランスを考えると市内北寄りにカテゴライズするのも難しいというか、本来的には、59_と183_と新たな388_とのセットで「鞍馬街道沿い」とでもすべきところなのでしょう。
この道が鞍馬街道であることも、正直、当ブログのコメントで幡枝人さんに指南いただくまでは意識に上がっておりませんでした。不覚。

二ノ瀬に調査へ行く際にこの道を通っており、その存在も気が付いていたのですが、「愛宕」の文字がないので見切っておりました。
しかし、幡枝人さんによると、西幡枝ではこれを愛宕灯籠として運用されているとのこと。ぉおー。
地元民コメント最高です。

もともと愛宕灯籠でないものを愛宕灯籠として使う、という実例もゲットすることができました。
鞍馬の岩神灯籠でもこの運用が行われていたという説が、純然たる邪推・推測から、ちょっとだけ可能性に近づいた気がします。
嬉しい。




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by fdvegi | 2018-01-08 00:30 | 京都在住 | Comments(2)

岩倉の愛宕灯籠、度重なる追加

すいません、まだありました。
岩倉

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369_左京区岩倉忠在地町

さすがにもうないんではないでしょうか。
どうだろう。。


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by fdvegi | 2017-12-29 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

一乗寺の愛宕灯籠、追加

灯台下暗し。
一乗寺で見つかりました。
しかも、一番最初の頃に見つけた003_から5歩くらいの場所です。
移設でしょうけど、そんなに近いのって、まぁないです。
しかも、薬師堂という施設の敷地内。
北白川の薬師堂にはなかったので油断しておりました。
お恥ずかしい。


しかしそれにしても、この発見によって100_、321_、003_、が一直線につながりました。
その延長上にある101_は、やっぱり愛宕灯籠の名残・遺構なのではないでしょうか。

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321_左京区一乗寺堀之内町



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by fdvegi | 2017-11-20 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

岩倉の愛宕灯籠、大量追加

岩倉には東側にしか愛宕灯籠がない、と言っておりましたが大いなる誤りでした。
西側にもありました。
そして、西側とはつまり岩倉実相院の周りを念頭に置いていましたが、岩倉実相院よりも南側にたくさんありました。小一時間歩いて約10基。釣果でいえば入れ食いです。
総数でいうと、あの広大な大原、左京区のラスボスをさえ上回っています。
これは奇怪。


それで初めて岩倉について少し調べました。ネットサーフィンだけど。
そしたらとても興味深いことがわかりました。
近くに住んでいるのに全然知らなかった。
京都・岩倉を歩く─精神病患者と共存した町(前編)(後編) というサイト :

江戸時代の18世紀末にはもう、多くの精神病患者が岩倉を訪れるようになっていて、そういう患者のための茶屋などができていたという。明治時代になると、精神病患者を預かる保養所ができ、さらに村の多くの民家でも精神病患者を預かるようになっていく。
(略)
岩倉に預けられた精神病患者は、高貴な家や大会社の創業者一族などの子どもも多く、なかには精神病だけではなく、さまざまな事情で生家では育てられない人も含まれていた。
(略)
たいした産業もなかった岩倉の村は、精神病患者や里子を預かり、その生家からお礼を受け取ることで生計が成り立っていた。

18世紀末が仮に1790年だとしても、そこからなお80年ほど江戸時代が続く(~1867年)、そういうタイミングです。80年というと64年続いた昭和よりも長いわけですから、すごい期間ですね。
そして、明治になると民家でも患者さんや、訳アリの里子を預かっていたという。
預け元の家庭からお礼を受け取っていて、預け元の中には富裕な一族もいた、と。

ここから先は完全に勝手な推測なのですが、愛宕灯籠が林立する2つの要素があったのではないかと思うのです。
・精神病患者が多い岩倉では、一般的な集落や村よりも、夜間の明かりに対する要請が高かった。
これは患者さんのためでもあり、住民のためでもあったでしょう。
・訳アリな預け元の中には、預け先の生計を維持した上でなお余裕が出るくらい多くの謝礼を支払っていたところもあった。
結果的にこれが愛宕灯籠という形になったのではないか。

今回、追加で多くの灯籠が発見された一帯は、引用した中にある保養所の後身である岩倉病院の南東側で、病院からみると少し坂を下りた人里ということになります。
その辺りで特に常夜灯へのニーズが高かったというのは、わりと腑に落ちる仮説ではないかな、という気がしています。

そして、岩倉という地名って恐らく「磐座」が元で、大きな岩自体が神格化されたり、神様の降りてくる場所とされています。
山住神社というところがそれで、なるほど大きな岩がありました。
磐座自体は日本中のいたるところに結構たくさんあるのですが、それぞれの岩のあり様は千差万別です。

山住神社の岩は何ていうかな、当日の気候や日の傾き加減もあると思のですが、「独立不遜・孤高の大岩」という感じではないのですよね。
覆いかぶさって包んでくるような、微妙なほの暗さをたたえておりました。
引用したサイトでは、岩倉の地から見える比叡山の稜線の優しさにポイントを置いていましたが、ぼくとしてはむしろ、この磐座のあり様こそが岩倉マインドの骨格をなしているんではないかと思っています。

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291_左京区岩倉西河原町

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292_左京区岩倉下在地町

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293_左京区岩倉西河原町

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294_左京区岩倉上蔵町

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295_左京区岩倉西河原町

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296_左京区岩倉中在地町

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297_左京区岩倉忠在地町

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298_左京区岩倉忠在地町

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299_左京区岩倉忠在地町

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300_左京区岩倉西河原町

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301_左京区岩倉下在地町


それにしても、「洛北岩倉と精神医療」を読んでみたいと思いました。
それと、やっぱりちゃんと灯籠の設置時期の確認をしないといけないな、と。

あと、東側の愛宕灯籠たちとこの西側の灯籠たちって、関係あるのかな。
現状の地図に照らすと、なんだか岩倉中通りを挟んで別々の文化圏になるような感じがします。
叡山電鉄の線路を挟む南北では絶対違うような気がするし、小さなエリアでありながら岩倉、なかなかに興味深い土地だなと、再発見させていただきました。




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by fdvegi | 2017-11-09 00:30 | 京都在住 | Comments(6)

左京区の愛宕灯籠 まとめ

左京区全図とともに。
右京区の山の上の愛宕神社の灯籠が左京区にもある。何と不思議なことだ。
そう思って捜索を始めましたが、いやはや、

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全部で80基もありました。

一部「愛宕」の確証のないものもありますが規模感としては力強いですし、網羅性という点では完ぺきに近いと思われます。

都市部を除けば集落は基本的に山沿いにあって、本当に山間部的な場所を除けば、愛宕灯籠のない山あいの集落はおよそ見当たらないわけです。

「愛宕(おたぎ)郡」という名前は平安京の前後からあって、現存する灯籠や常夜灯が建てられるはるか前のことではあるのだけど、それでもやっぱり、「愛宕郡」の名前の背景には、当の愛宕山からはるかに離れているにも関わらず、なおこの地に「愛宕山」の何かが網羅的に・一大勢力として存在していた、その驚きや畏敬の念が込められているのだと、そう思いたくなります。




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by fdvegi | 2017-09-20 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

鞍馬の岩神灯籠?

天狗と牛若丸で有名な鞍馬です。
鞍馬の火祭でも有名ですが、そんな鞍馬に火伏の神様である愛宕灯籠があるのはなんだか不思議です。
1基は二ノ瀬と同じ木製でした。


鞍馬というと、駅からそのまま鞍馬寺に行って、頑張って歩いて貴船に回って電車で帰る、あるいはその逆、というコースが一般的に浮かびます。
貴船が、駅から貴船神社までほぼ一貫して観光的意志に貫かれているので、それと同じように鞍馬も駅から寺までの世界がいわゆる鞍馬かと思ってしまうのですが、なかなかどうして、鞍馬には駅とか寺とは異なる、古い細道に沿った静かな町並み、ローカル鞍馬がわりときれいに残っています。
灯籠はその細道に沿って残っていました。

いずれもお札箱があるので、お札を納めていたということでしょう。
鞍馬寺から愛宕神社まで、試しにグーグルマップで調べたところ25.2km 、徒歩で6時間17分と出ます。往復すれば単純計算で12時間。
同じルートが過去にもきれいに整備されていたとは考え難く、山あり谷あり、いくら早くても1泊2日の強行軍ではなかったかと思われます。
持ち帰ったお札をお札箱に収める恍惚感や達成感、そして各家に配られた「阿多古祀符・火迺要慎」のありがたみたるや、とてつもないものだったに違いありません。


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211_左京区鞍馬本町

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212_左京区鞍馬本町

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213_左京区鞍馬本町

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214_左京区鞍馬本町


いや待て、ん?
212_に「岩神大明神」とあります。灯籠の形といい、お札箱といい、どれも見た目があまりにも愛宕灯籠っぽいので思い込んで写真を撮っていました。
家に帰って初めて気が付いたんですが、ひょっとして愛宕灯籠じゃない?
そう思ってよくよく見てみると、213_にも最初の文字として「石」が見えます。「愛」より「岩」に近い。
実は、鞍馬にいる間にも「岩神」に気が付いて撮らなかった灯籠が一つありました(こうなってくると撮り直しに行かねば)。

つまり、ここにあるのはすべて愛宕灯籠ではなく、いわば「岩神灯籠」ということでしょうか。
そして、211_も岩神灯籠の一つとしてここにあるとすれば、まったく同じ形状の二ノ瀬の木製灯籠たちも愛宕灯籠ではなく岩神灯籠という可能性が浮上してきます!むむむー!

巻頭言に書きました「したかった事」その3に照らすと、愛宕勢力圏のまさに境界部分ということになります。ミステリアスです。
岩神神社ってイマイチ聞いてことないし、確認できてません。
誰か何か教えてください。
左京区、最後の最後になってスリリングになってまいりました。ドキドキ。




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by fdvegi | 2017-08-28 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

大原の愛宕灯籠

「京都ぉ~、大ぉ~原 三千院♪」というフレーズを、35歳と30歳の知り合いは、もはや知りませんでした。最近ではむしろ、自然、里山、田舎暮らし、癒しの風景のイメージなのかもしれません。


三千院の向かいの山には寂光院というお寺もあり、これは聖徳太子が建てた(6世紀頃)という話もあれば、源平合戦の頃(12世紀頃)の皇后かつ天皇の母という、やんごとない人が住まわれたところでもあります。
近くには二ノ瀬に出てきた惟喬親王(9世紀頃)のお墓もあって、京都の果てでありながら、もはや異様なまでの歴史的・文化的密度を誇ります。

灯籠は、三千院付近と寂光院付近に集中しつつ、大原という広い盆地全体をカバーしている状態で、その数20基(2017/08観測)。
一乗寺も岩倉も八瀬も静原も他のところも、それぞれ小ぶりながら奥行を感じさせる興味深い場所です。しかし、大原捜索の帰路、自然とわきあがってきた感慨は、「左京区のボスは大原」というものでした。あっぱれなほどに、それはもう段違いというか圧倒的というか次元違いの大物が一番背後に控えている。
それが京都の左京区なんだなと思いました。

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189_左京区大原井出町

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190_左京区大原井出町

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191_左京区大原野村町

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192_左京区大原野村町

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193_左京区大原野村町

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194_左京区大原草生町

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195_左京区大原草生町

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196_左京区大原草生町

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197_左京区大原草生町

ちょっと一休み。
ここまで高野川の北側(左側)で、ここからは南側(右側)です。
北側の方がもっぱら駐車場の料金は安めです。


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199_左京区大原来迎院町

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200_左京区大原大長瀬町

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201_左京区大原来迎院町

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202_左京区大原来迎院町

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203_左京区大原来迎院町



また少し一休み。ここまでが高野川南側でも、特に三千院周り。ここから先は高野川南側で三千院までは行かない京都の街寄り。


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205_左京区大原大長瀬町

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206_左京区大原上野町

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207_左京区大原上野町

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208_左京区大原上野町

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209_左京区大原戸寺町

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210_左京区大原戸寺町


はたと思いが出しました。そういえば、左京区って昔は「愛宕郡」だったな、と。
そうなのです。
平安の昔から明治くらいまで、今の左京区の大半は愛宕(おたぎ)郡であり、大原は愛宕郡の中の小野郷に属していたそうなのです。
さらに、再々登場し、この地に眠っている惟喬親王の別名がまた小野宮というそう(秋篠宮文仁親王と同じように、小野宮惟喬親王ということでしょう)。

何だかもう色んなものが入り組みすぎです。


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by fdvegi | 2017-08-27 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

二ノ瀬の愛宕灯籠?

※鞍馬の調査(8/28)により、二ノ瀬の灯籠がいずれも「愛宕灯籠」ではない可能性が浮上してきました。なのでタイトルに「?」を追加しています※

二ノ瀬です。京都でも、それがどこなのか明確に知っている人は少ないんではないでしょうか。
何となく聞いたことはある。あの辺かなって気はする。だけど全然自信ない。
そんなところで、まだ平均点高めなのではなかろうかと。


鞍馬・貴船へ行く間にある最後の駅で、市原と鞍馬・貴船の間にある小さな集落なのですが、最近トンネルができたので今後は車で通ることすら稀になっていくのだろうと思われます。トンネルにその名が残る、という展開をリアルタイムで目にしているのかもしれません。

ただ、ウィキペディアによると、惟喬親王が雲ケ畑にある市ノ瀬(≒一ノ瀬)の次に暮らした場所なので二ノ瀬というとのこと。歴史の深さはシャレにならないレベルです。9世紀とか、そういう話ですから。

静原や八瀬と同様にかなり限定可能な集落です。その中に5基見つかっており、探せばもう1つ2つはありそうな雰囲気もありますが、とりあえず5つは確定。同じく手つかずとはいえ、どことなく瀟洒感のある静原とは完全に一線を画した "朽ち" 感を味わいに、今のうちに訪ねておきたい場所だと思います。


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188_左京区鞍馬二ノ瀬町

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094_左京区鞍馬二ノ瀬町

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187_左京区鞍馬二ノ瀬町

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186_左京区鞍馬二ノ瀬町

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185_左京区鞍馬二ノ瀬町

いずれも木製。石製はひとつもありません。
ここよりさらに山奥である鞍馬にも木製があるようなので二ノ瀬限定の奇習というわけではないのだとは思いますが、はて、石がなかったからなのか、重たすぎたりして都合が悪かったのか。それとも、木でないといけない何か理由があるのか。
惟喬親王には、えぇ、隠棲の身にあって周辺の杣人(流れの林業従事者)に木工技術を伝授し、結果、お椀やお盆などの加工・製造が日本各地に伝わったとの伝説があり、一部では「木地師の祖」とも呼ばわれているようではありますが。。。




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by fdvegi | 2017-08-22 00:30 | 京都在住 | Comments(0)