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玄琢の愛宕灯籠

西賀茂鷹峯の間の微妙な坂道エリアが玄琢(げんたく)です。
西賀茂にも鷹峯(京都市内北寄り)にも区分しがたい感じ。

そんなところにも愛宕色濃厚な石灯籠が発見されました。
もちろんこれもお地蔵ハンターさんによるものです。
いやはや、すごいですね。ありがたし。

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627_北区大宮玄琢北町


これが愛宕灯籠である明確な論拠はないのですが、この玄琢という地名にヒントというか、因縁があります。
これ、元々は人名なのです。野間玄琢さん。

玄琢さんが徳川幕府からこの土地をもらい受けて住んだので、地名が玄琢となったわけです。
もらい受けたのは1615年とされています。

その頃、江戸幕府の将軍職は2代目の秀忠でしたが、秀忠が自らのリーダーシップを発揮したのは家康が死んでからとされています。
で、家康が死んだのは1616年ですから、玄琢にこの地を与えたのは秀忠かもしれないし家康かもしれないということですね。

ここでウィキペディアさん。

野間玄琢(のま げんたく1590~1645)は、天正18年に山城で生まれ、名は成岑、通称を玄琢といい、白雲老人・寿昌院と号した。
曲直瀬玄朔に李朱医学を学び、慶長10年(1605)医学典籍の代講をした。
寛永3年(1626)徳川秀忠の侍医となって江戸に赴き、隔年に江戸に伺候。
同13年(1636)、東福門院の病気治療に功あり、のち後宮に仕えた。

気が付いたでしょうか、「白雲老人」という号に。
そして覚えておいででしょうか、愛宕神社はもともと白雲寺だったことを。
つまり、この号は、私は愛宕の人である、言っているようなものなのです(たぶん)。

愛宕の人で、かつ、家康からもらったその土地とあっては、もう言い逃れできないですよね。
これは愛宕灯籠でしょう。
御土居からもいい感じで外側ですしね。

それにしても、仏教や神道的に「白雲」とか「雲」ってどういう意味合いがあるのでしょうね。
結構たくさんあるのです、「雲」系の寺社仏閣名。
そのたびに幻惑されています。

さて、玄琢さんの師匠は曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)という人で、その人の師匠は医聖と呼ばれる曲直瀬道三(まなせ・どうざん)という人です。つまり、玄琢さんは曲直瀬道三の孫弟子です。

神君伊賀越えと愛宕灯籠に書いた、甲賀市磯尾の明王寺にどういうわけか徳川三代の位牌があるという話や、この曲直瀬道三さんの出自や、道三さんと玄琢さんの師弟関係や、そもそも磯尾という場所には山伏(修験者)いたとか、そういう色んな情報が混然一体となって思わせぶりな感じになってくるのですが、どうにもこうにもまとめきれませんので、それはまた別の話。




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by fdvegi | 2018-10-16 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

西加茂かな愛宕灯籠、追加

紫竹貴船神社の境内にみつかりました。
これもインスタグラムを通じて情報提供いただきました。
ありがたや。

ここを西賀茂としてよいものか難しいところなのですが、実は、西賀茂と京都市内北寄りでアップした440_、441_、060_が偶然か何か知りませんが一直線に並んでいるのです。
そして、もう一つ、見つかってはいるけどアップできそうにない灯籠が下鴨にありまして、それとも一直線につながります。
で、賀茂川と大宮通と北山通または北大路通で三辺が構成される三角形がその中間点にあたるので、その辺りをけっこう意識して探していました。

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618_北区紫竹西北町


結果的に、紫竹貴船神社はその三角形からは西に外れはするのですが、いかんともしがたく漂う「ここへ移設しました感」。
きっと氏子さんがおられるでしょうから、お話を聞いてみたいものです。
上に並べた3基とは形状も違うので、まったく別の新たな水脈という可能性も秘めています。

そして、このほかに2か所、お地蔵チェイサーに教えてもらっていました。
619_と626_です。
619_は今原公園のかどっこに2基並んでいるという、これ以上ないほどの移設されました感を放っております。
626_は御薗橋のたもとのすぐそばです。
川を挟んですぐ向こうが上賀茂神社なわけですから、なんだか歴史というかいわくというか、そういうものも色々ありそう。

さらに、一個新たに見つかったのが743_で、稲荷神社と併設されていました。
お札入れの中にはしっかりと愛宕神社のお札を確認できました。
西加茂の440_や上賀茂の438_もお稲荷さんが関連しているので、上賀茂・西加茂エリアには、稲荷信仰がしっかり根付いているのかもしれませんね。
なんでなんだろう、すぐそこに上賀茂神社があるというのに。
気になるところです。


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619_北区西加茂南今原町

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626_北区大宮上ノ岸町

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743_北区大宮南田尻町


9月になった途端に忙しくなってしまい、なかなかブログに手が付けられませんが、もう一つ京都市内でカテゴリーしようのないのをアップしたら、いよいよようやく滋賀に着手できそうです。




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by fdvegi | 2018-09-30 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

上賀茂でも愛宕灯籠を追加

当初ないないと思っていた上賀茂
ここぞという場所でやっと見つかったのは、当然というか、上賀茂神社の北側でした。
鞍馬市原辺りの流れを汲む場所でした。
が、なんと上賀茂神社の南でも出てきました。
正直びっくり。

ひとつは竹鼻地蔵尊というお地蔵さんおお堂の中に立っておりました。
お地蔵さんということで、これもやはりインスタグラムで京都市内の地蔵マスターに教えてもらいました。
京都市内はほんと、その人にお任せしたほうが効率的なんではないだろうか。

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625_北区上賀茂蝉ケ垣内町


もう一つは、竹鼻地蔵尊から少し北。
うわ。
こんな大々的にあったんですか!という感じ。
上賀茂神社のご威光の濃い一帯、いわゆる社家界隈では存在しえないような気がしていました。

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624_北区上賀茂向梅町


ところがどっこい、寄進者として刻んである名前は、下鴨神社の宮司さんと同じ苗字なのです。
どういう関係があるかはもちろん知りませんが、下鴨と上賀茂の関係で、かつ上賀茂の社家界隈ですからね、やっぱり関係者でいらっしゃるのではないでしょうか。
賀茂社と愛宕、この深淵なる、大物たちの交友図。

それともただの下衆の勘繰りか。




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by fdvegi | 2018-08-08 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

上賀茂の愛宕灯籠

松上げのできないところに愛宕灯籠、というのがこのブログでの愛宕灯籠の扱いです。
本当の愛宕信仰は松上げという一種の山焼きであり、山がないとか木がないとか人里に近いとか、そういう理由で盛大な山焼きをできないところに置かれる縮小版の炎が愛宕灯籠という説です。
(ちなみに、松上げと五山の送り火は全く別のものです。)

そういう意味では、愛宕の火伏信仰の本質は「火をもって火を制す」なのかもしれません。
火の神様を身近に置くことで災いなす火は伏せてもらう、という。
明智光秀で有名な「勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)」のイメージもやはり火ですよね。

最近、柳谷観音の護摩焚きを見る機会があって、思いがけず愛宕山と修験道とのつながりを思い出したのですが、なるほど、修験者たちなら山の中で大きな火を熾すことも可能だったかもしれません。

さて、どうしてそんな話をしたかといいますと、上賀茂にもようやく愛宕灯籠を発見したからです。
上賀茂神社の北、雲ヶ畑の南です。
①雲ヶ畑は有名な松上げスポットで、その真下に当たるのが②上賀茂。
上賀茂から一山越えた東が③静市市原で、市原の北側、つまり、雲ヶ畑から東に山を越えたところが④二ノ瀬鞍馬です。

これら①②③④をつなぎ合わせると、(かなり観念的な)四角形になるわけですが、①には松上げ(灯籠なし)、③と④には愛宕灯籠(松上げせず)、なのに、②にだけ愛宕モノがなかったのです。
それが今回ようやく見つかりました。ホッ。

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438_北区上賀茂前田町

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439_北区上賀茂津ノ国町

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442_北区上賀茂坂口町


いずれも昭和ひとケタの設置でした。
昭和ひとケタの上賀茂、どんなところだったのか想像を絶するなぁ、なんて思っていたら、京都府のHPに写真がありました。

7番がそれです。昭和18年なので灯籠の設置から10年ほど時代が下っていますが、場所はほぼジャストミート。けっこう開けてるんですね。なんとなく鬱蒼としているかと思ってました。
(21番は昭和3年の雲ヶ畑です。うわぁ、奇跡のよう。)

なお、この「古写真で見る自然環境、地域共同体とのかかわり方の変化」を担当しているのは大阪府立大学中村治教授です。
聞き覚えがあるなと思っていたら、岩倉の大量追加で言及した「洛北岩倉と精神医療」の著者でした。うわぁ。うわぁ。
中村教授、精神医療の人かと思っていたら、近代京都郊外の碩学でもあるのですね。
講演会とかワークショップとかしないかな。




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by fdvegi | 2018-03-17 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

西加茂の愛宕灯籠

上賀茂から賀茂川を渡って西側が西賀茂です。
ここでも2つ見つかりました。
京都市内北寄りの060_の近くというか、それよりも北西ですね。

驚いたことに、今回の2つと既出の060_がまったく一直線上です。奇遇ですね。
しかも、火袋の上にお札置きの小窓という形態もよく似ています。
偶然といえば偶然かもしれないけれど、何らかの一貫性を見出したくなるのが人情。


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440_北区西加茂北鎮守菴町

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441_北区西加茂光院町


ただ、その一貫性が何なのかはわかりません。何だろう。

興味深いことに、直線を北西に伸ばすと船山という山があります。
船山に寄り添うようにあるのが、なんと秋葉山と秋葉神社です。
京都にあって秋葉神社。なかなか根性きまってます。
京都の北西といえばまさに愛宕山ですが、緯度はそのままちょうど東にスライドしたところに秋葉山。市内により近いといえば近いです。

そんな戦略的配置を取ってきた秋葉の京都市内への流入を抑えるように愛宕灯籠が設置されてるとか?
近所にある「大将軍神社」もなんとなく「勝軍地蔵」っぽいし。
んー。。
どうなんでしょう。
単に市内北西の地から、もっと北西の愛宕山を臨んでいるというのが正解な気もするし。




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by fdvegi | 2018-03-14 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

京都市内北寄りの愛宕灯籠、追加

当ブログのコメントで幡枝人さんに情報提供いただきました。


一つ目は勇身八幡宮という小さな神社の門前にありました。
この勇身八幡宮という神社は創祀や由緒等は不明なようです。
初代の征夷大将軍である坂上田村麻呂について『坂上田村麻呂伝記』という本があるそうで、その中に田村麻呂を評して「武芸称代 勇身踰人 辺塞閃武。 武芸はあたいにかない 勇ましい身は人をこえる 辺塞にあって武を閃く」という記載があるとのこと。
この「勇身」を頼りに、坂上田村麻呂の個人的な祀りの跡という推測が、ネット上では行われています。
そのことと愛宕灯籠との関係は不明です。

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388_北区上賀茂深泥池町

ただ、愛宕神社というか愛宕山はもともと地蔵信仰をしていたようで、地蔵にもいろいろと種類がある中「勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)」というのを祀っていたそうなのです。
読んで字のごとく、これに祈れば戦に勝つという地蔵で、鎌倉時代以後、武家の間で信仰されたとのこと。
明智光秀が本能寺の変の前に愛宕山へこの勝軍地蔵を訪ねたのは、わりと有名な話です。

というわけで、武勇の男・坂上田村麻呂と勝軍地蔵とがリンクした結果としての、この場所の愛宕灯籠ではないかと思われます。
鞍馬街道沿いでもあり、灯籠文化が実を結んだのではないでしょうか。
京都市北寄り(というか鞍馬街道の深泥池付近)、地味ながら相当なかなか面白い場所です。

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393_左京区岩倉幡枝町


もう一つあったのが、左京区の幡枝です。「はたえだ」と読みます。
岩倉地区の一部なのですが、岩倉中心部からはだいぶ離れており、どう考えても同じ文化圏とは思えず、岩倉からは分けました。
47_と60_とのバランスを考えると市内北寄りにカテゴライズするのも難しいというか、本来的には、59_と183_と新たな388_とのセットで「鞍馬街道沿い」とでもすべきところなのでしょう。
この道が鞍馬街道であることも、正直、当ブログのコメントで幡枝人さんに指南いただくまでは意識に上がっておりませんでした。不覚。

二ノ瀬に調査へ行く際にこの道を通っており、その存在も気が付いていたのですが、「愛宕」の文字がないので見切っておりました。
しかし、幡枝人さんによると、西幡枝ではこれを愛宕灯籠として運用されているとのこと。ぉおー。
地元民コメント最高です。

もともと愛宕灯籠でないものを愛宕灯籠として使う、という実例もゲットすることができました。
鞍馬の岩神灯籠でもこの運用が行われていたという説が、純然たる邪推・推測から、ちょっとだけ可能性に近づいた気がします。
嬉しい。




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by fdvegi | 2018-01-08 00:30 | 京都在住 | Comments(2)

京都市内北寄りの愛宕灯籠

遂に左京区を離れました。


京都を中心に点在したり密集したりしている愛宕灯籠ですが、どういうわけか京都の町の中、いわゆる洛中にはありません。
いや、洛中よりもうちょっと広い範囲に渡って ”愛宕砂漠” が広がっています。
お地蔵さんのパレードかというほど濃密な一帯に出くわすこともありますが、こと愛宕灯籠に至っては皆無、無音地帯です。

何らかの政策的な取り決めがあったのかと想像する一方で、お上の政策ならむしろ法の網をくぐった例外的なものがポコポコ出てくるように思います。
であれば、町の中には軒先の明かりなどがあって常夜灯へのニーズが低く、むしろ住宅密集地での火の不始末への恐怖が勝ったのか。
あるいは、後世になって開発の波に飲み込まれていったのか。でも、お地蔵さんは残ってますしね。


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059_北区上賀茂深泥池町

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060_北区大宮南林町

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047_北区鷹峯千束町

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183_左京区上賀茂深泥池町


もっとちゃんと探せば町の中にも出てくるのでしょうか。
例えば、お寺や神社の中なんかに。
情報を乞うております。





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by fdvegi | 2017-08-29 00:30 | 京都在住 | Comments(0)