<   2018年 03月 ( 9 )   > この月の画像一覧

南丹市内の亀岡盆地の愛宕灯籠

園部町では南丹市の観光パンフを紹介しましたが、同じものでも仕方ないので、市民向けの市勢要覧というのを紹介いたします。で別になっております。

この地図でも四分割されているというか、市の成り立ちがそもそも四つの地域の合併なのですね。
位置的には下から二つ目、園部町の一つ上の東側が八木町です。
市役所は園部にありますし園部の方が有名なのですが、起源的には八木の方が古いようです。
山陰街道が一筋通っているだけの園部に比べ、八木は亀岡盆地の一部であって桂川まで流れていますので、そりゃまぁ交通の便がよかったのでしょう。

愛宕灯籠も、神吉という山の縁の一地区を除いて、基本的に平地にありました。
平野部分から始めて、神吉へ、そして宕陰へと、北に向かってどんどん昇っていく感じが面白かったです。
なるほど、北面する魁夷な山へ信仰心が芽生えるのが、何だか自然の摂理というか、一種の成り行きどおりという感じさえしました。

c0072352_22352045.jpg
345_南丹市園部町高屋

c0072352_22351989.jpg
346_南丹市園部町高屋

c0072352_22352079.jpg
347_南丹市園部町熊原


以上、比較的北側の3人衆。長命的には園部町ですね。

346_は「愛宕」の文字がないのですが、近くで畑仕事をしていたおばちゃんが教えてくれました。
その一角(道の一隅)を「愛宕の辻」と呼ぶそうです。
そして、もう一つの愛宕灯籠がどこにあるかも教えてくれました。
それが345_で、すでに見つけてあっただけに、二つの灯籠が地元的には一つの地域に含まれるんだなというのがわかって面白かったです。
というか、愛宕への信仰が相当しっかりと根付いていると思わずにはおれないのでした。

c0072352_22384989.jpg
348_南丹市八木町山室

c0072352_22384995.jpg
349_南丹市八木町室橋

c0072352_22384938.jpg
350_南丹市八木町諸畑

c0072352_22384904.jpg
351_南丹市八木町日置


いよいよ八木町。
いずれも都市感がありました。特に349_なんかは商店街というか、かつての目抜き通りじゃないかな。
穴場は350_です。この他にも様々な石灯籠が小さな祠の前に寄り集まっていました。

そして、ここからが神吉。

c0072352_22433156.jpg
352_南丹市八木町神吉

c0072352_22433054.jpg
353_南丹市八木町神吉

c0072352_22433107.jpg
354_南丹市八木町神吉


353_は、見たとき撮ったときは、天空の愛宕灯籠だ!と大興奮したんですが、ひょっとすると近くの神留寺の灯籠かもしれません。
真偽不明です。
でもいずれにしても、急斜面にすっくと立つ菅田は美しく、地名に「神」の文字を使うにふさわしい印象を受けました。

北の山には神が宿るのです。
「私たちの身近にある石造物を訪ねて」に敬意を表して亀岡市には触れずにおくことを心に決めてはおりますが、これだけ心に密接している様子を垣間見てしまうと、やはりいずれは行って、あれやこれやと話を聞いてみたいなと思います。




[PR]
by fdvegi | 2018-03-26 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

南丹市園部周辺の愛宕灯籠

どうしてこういう行政区画をしてしまったのか、南丹市。
北は茅葺屋根の集落で有名な美山から、南は先日亡くなった野中広務で有名な園部町まで、どう考えても全然違う文化圏を含んでいます。

南丹市がきれいな観光ガイドを出していて、地図もついていますので、ぜひご覧ください。力作だと思います。

さて、山陰街道をウィキペディアで見てみます。

京の七口の一つとされる丹波口を起点として、樫原を経由し老の坂を越えて丹波国に入り、亀岡、園部、三和を経て福知山に達し、夜久野を経て但馬国へと繋がっている。

丹波口は少し離れた西京極で、樫原(はたぎはら)は物集女で、老の坂は沓掛で、亀岡は「私たちの身近にある石造物を訪ねて」で、それぞれに愛宕灯籠が確認されています。
そして、今回が園部。

ありました。
それも結構ふんだんにありました。

c0072352_22460772.jpg
339_南丹市園部町埴生

c0072352_22460704.jpg
340_南丹市園部町埴生

c0072352_22460860.jpg
341_南丹市園部町埴生

c0072352_22460861.jpg
342_南丹市園部町埴生

c0072352_22460875.jpg
343_南丹市園部町南大谷

c0072352_22460763.jpg
344_南丹市園部町南大谷


「愛宕」を歴然とは確認できないものも含んではいるのですが、群生エリアでは愛宕算定しております。それが自然だと思う。うん。
時代劇が撮れるんじゃないかっていうような一帯もありました。
過去に栄え、今日の都市部から近くなく遠すぎないからか、なんか知らんけどもうタイムスリップの心持ちでした。
政治行政的に長らく有力だったことも、こういうことには影響しているのかもしれません。

いいか悪いかはとりあえずおいといて、とても面白かった。
こういうことがまだまだ続けられる国がいいと思う。




[PR]
by fdvegi | 2018-03-22 00:30 | 京都在住 | Comments(2)

上賀茂の愛宕灯籠

松上げのできないところに愛宕灯籠、というのがこのブログでの愛宕灯籠の扱いです。
本当の愛宕信仰は松上げという一種の山焼きであり、山がないとか木がないとか人里に近いとか、そういう理由で盛大な山焼きをできないところに置かれる縮小版の炎が愛宕灯籠という説です。
(ちなみに、松上げと五山の送り火は全く別のものです。)

そういう意味では、愛宕の火伏信仰の本質は「火をもって火を制す」なのかもしれません。
火の神様を身近に置くことで災いなす火は伏せてもらう、という。
明智光秀で有名な「勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)」のイメージもやはり火ですよね。

最近、柳谷観音の護摩焚きを見る機会があって、思いがけず愛宕山と修験道とのつながりを思い出したのですが、なるほど、修験者たちなら山の中で大きな火を熾すことも可能だったかもしれません。

さて、どうしてそんな話をしたかといいますと、上賀茂にもようやく愛宕灯籠を発見したからです。
上賀茂神社の北、雲ヶ畑の南です。
①雲ヶ畑は有名な松上げスポットで、その真下に当たるのが②上賀茂。
上賀茂から一山越えた東が③静市市原で、市原の北側、つまり、雲ヶ畑から東に山を越えたところが④二ノ瀬鞍馬です。

これら①②③④をつなぎ合わせると、(かなり観念的な)四角形になるわけですが、①には松上げ(灯籠なし)、③と④には愛宕灯籠(松上げせず)、なのに、②にだけ愛宕モノがなかったのです。
それが今回ようやく見つかりました。ホッ。

c0072352_23190311.jpg
438_北区上賀茂前田町

c0072352_23190938.jpg
439_北区上賀茂津ノ国町

c0072352_23192984.jpg
442_北区上賀茂坂口町


いずれも昭和ひとケタの設置でした。
昭和ひとケタの上賀茂、どんなところだったのか想像を絶するなぁ、なんて思っていたら、京都府のHPに写真がありました。

7番がそれです。昭和18年なので灯籠の設置から10年ほど時代が下っていますが、場所はほぼジャストミート。けっこう開けてるんですね。なんとなく鬱蒼としているかと思ってました。
(21番は昭和3年の雲ヶ畑です。うわぁ、奇跡のよう。)

なお、この「古写真で見る自然環境、地域共同体とのかかわり方の変化」を担当しているのは大阪府立大学中村治教授です。
聞き覚えがあるなと思っていたら、岩倉の大量追加で言及した「洛北岩倉と精神医療」の著者でした。うわぁ。うわぁ。
中村教授、精神医療の人かと思っていたら、近代京都郊外の碩学でもあるのですね。
講演会とかワークショップとかしないかな。




[PR]
by fdvegi | 2018-03-17 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

西加茂の愛宕灯籠

上賀茂から賀茂川を渡って西側が西賀茂です。
ここでも2つ見つかりました。
京都市内北寄りの060_の近くというか、それよりも北西ですね。

驚いたことに、今回の2つと既出の060_がまったく一直線上です。奇遇ですね。
しかも、火袋の上にお札置きの小窓という形態もよく似ています。
偶然といえば偶然かもしれないけれど、何らかの一貫性を見出したくなるのが人情。


c0072352_23253427.jpg
440_北区西加茂北鎮守菴町

c0072352_23253398.jpg
441_北区西加茂光院町


ただ、その一貫性が何なのかはわかりません。何だろう。

興味深いことに、直線を北西に伸ばすと船山という山があります。
船山に寄り添うようにあるのが、なんと秋葉山と秋葉神社です。
京都にあって秋葉神社。なかなか根性きまってます。
京都の北西といえばまさに愛宕山ですが、緯度はそのままちょうど東にスライドしたところに秋葉山。市内により近いといえば近いです。

そんな戦略的配置を取ってきた秋葉の京都市内への流入を抑えるように愛宕灯籠が設置されてるとか?
近所にある「大将軍神社」もなんとなく「勝軍地蔵」っぽいし。
んー。。
どうなんでしょう。
単に市内北西の地から、もっと北西の愛宕山を臨んでいるというのが正解な気もするし。




[PR]
by fdvegi | 2018-03-14 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

宕陰地区の愛宕灯籠

愛宕神社に最も近い愛宕灯籠ではないかと思います。356_。
この仕事(じゃないけど)をするまで知らなかったのですが、この辺りを宕陰(とういん)地区というのです。
まんま、愛宕山の陰ということで、過去には愛宕神社への参拝者の宿坊などもあったという。
素敵なサイトマップが用意されていますので、ぜひご覧ください。

c0072352_22560999.jpg
356_右京区嵯峨樒原宮ノ上町


実際行ってみても、なんかこう、圧倒されます。
その名も樒原(しきみがはら)ですからね、名前からして尋常でない印象を受けていました。
かっこいいです。
そして、灯籠じゃないけど見つかったのが357_。
本当に、これのミニチュアが欲しい。
家に置いておきたいし、チャームにして持ち歩きたいです。

c0072352_22560944.jpg
357_右京区嵯峨樒原高見町


樒原と一緒に宕陰を構成するのが隣接する腰畑(こしはた)です。
建物、石垣、屋根、いずれも隣接する異世界という感じでした。
そして、腰畑で見つかったのが355_です。
微妙なんですけどね、、とりあえずアップしましょう。
だって宕陰なんですよ。

c0072352_22560910.jpg
355_右京区嵯峨腰畑中ノ町


きっと覚えてないでしょうけど、天気のいい日に娘を連れていけたのが嬉しかったです。

四所神社で木陰の犬にびびり(散歩中の飼い犬です)、犬もびびって吠えられ、慌てふためいてド派手にこけ、湿った土でドロドロになったという極めて不幸な一幕ではありましたが、宕陰地区に行ったことがあるというのがいつか大きな財産になると、父はけっこう本気でそう思っています。





[PR]
by fdvegi | 2018-03-10 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

淀の愛宕灯籠

久世の追加で書きました桂川にぶつかるところの愛宕灯籠です。
ぱっと見、鳥羽街道の延長上なのですが、何せ桂川を渡っています。
なので街道上ではないと思うのです。


c0072352_22383757.jpg
406_伏見区淀樋爪町


気になるのは2点で
  • その辺りが鳥羽街道からの渡し船の船着き場だったのか(だったら鳥羽街道の延長ってことかもしれません)
  • 淀とか納所という、今は立派な橋のかかっている周辺に灯籠がないか(あれば、橋を通じて一つの淀文化圏になるのでしょう)

上のいずれでもなければ、それこそ久世の追加で書いた通り農村ルートかもしれず、東土川からここまでの間にもう1つか2つくらいの出現を待ちたいところです。




[PR]
by fdvegi | 2018-03-07 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

久世の愛宕灯籠、追加

ここも久世なのか、というところに倉掛神社という神社があって、その境内に、土を盛って作ったミニ愛宕山が形成されていました。
その頂に灯籠。
まさに愛宕灯籠。


c0072352_22323434.jpg
422_南区久世東土川


久世から向日へ抜けていく西国街道からは少し外れており、そういう意味では、向日の389_と似たような位置取りになっています。

ただ、このままドスンと南に突き抜けると、桂川にぶつかるところにも1基確認されていますので、南北の線でいうと、西側の西国街道ラインと、桂川を挟んだ鳥羽街道ラインの間の、中間ラインが形成されているのかもしれません。
もう1基か2基くらい見つけたいところです。

両街道にはやはり物心両面での流通路の意味合いがある一方、その間の一帯は田畑であったはずで、穀倉に端を発すると思われる倉掛神社は象徴的です。

愛宕灯籠が、(ここでも)、土着的な土壌への溶け込もうとしている様子が、読み取れるのではないかと思います。




[PR]
by fdvegi | 2018-03-05 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

向日市の愛宕灯籠、さらに追加

さらに二つ、通りがかりの者さんに教えてもらって見てきました。
いやはや驚いた。
どちらも何度もニアミスしています。
気が付かないものですね。

c0072352_22292681.jpg
423_向日市上植野町


c0072352_22292578.jpg
424_向日市寺戸町


[PR]
by fdvegi | 2018-03-03 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

守山市木浜の愛宕灯籠

堅田から琵琶湖を隔てた向こう岸が守山です。琵琶湖大橋で渡れます。
最近ではピエリ守山が有名ですし、第一なぎさ公園では折々の花畑を楽しめます。

堅田衆なる町人が大いなる勢力を誇った自治都市の対岸ですので、少なからずその文化的影響もあろうかと探しに行ってきました。
すると、木浜という集落の中の一つの通りで2基発見。
けっこう躍起になって周辺を探しましたが他には見つからず、不思議とその通りだけでした。
何なんでしょうね。

c0072352_22245103.jpg
359_守山市木浜


c0072352_22245113.jpg
c0072352_22245111.jpg

358_守山市木浜


守山市のHPに木浜についての若干の記載を発見しました。
わずかながら堅田との関係にも触れられています。

寛永年間、徳川幕府から守山宿に制札が下されると、街道の整備とともに宿場が整い、朝鮮通信使が東門院で宿泊するなど、京発ち守山泊まりとして賑わい、また、花市は京、大坂にも劣らない活気があったということです。
湖岸周辺では新田開発やエリ漁が盛んになり、木浜はその親郷となり、対岸の堅田まで届くような大きなエリが設けられたほどです。

というわけで、かなり栄えた港町だったようです。
堅田湖族という人々は時には海賊行為までして水上での権勢を示威したようですので、守山や木浜もその影響下にあることは免れ得ないイメージでいましたが、なかなかどうして、海賊の鼻先で漁をしていたわけですから、文字通り向こうを張っていたのかもしれません。

木浜からは少し離れてはいますが、守山の中心は引用にも出てきた比叡山東門院守山寺で、その名の通り比叡山の僧房の一つであり、かつ、桓武天皇ゆかりの寺院ですらあるようです。
そして、堅田は、その始まりは比叡山の荘園であり、一旦は比叡山によって全面的に焼き払われてすらいます。
つまり、強気に言って、因縁浅からぬ抜き差しならない様相であり、弱気に出れば、どうにも頭が上がらない大親分、という事になるのでしょう。

木山の愛宕灯籠も、簡易量産型ともいえる堅田のものに比べると、というか、ほかの地域と比べても相当すこぶる重厚で、堅田を真似たという印象はまったくありません。
真相が気になります。

それにしても、港町と愛宕灯籠というのは相性が良いのですね。
堅田もそうですし、和邇蓬莱がそうでした。




[PR]
by fdvegi | 2018-03-01 00:30 | 京都在住 | Comments(0)