カテゴリ:京都在住( 429 )

羽束師の愛宕灯籠

久世の追加で言及した、国道171号線以西の中間ラインにやはり一つ見つかりました。
観音寺というお寺の境内です。
ここだろう!と思って探しに行って本当にあった時の快感はたまりません。

宝暦11年という年号もはっきり読み取れます。
1761年にはしっかりコミュニティがあったわけですね。実に260年の歴史です。すごい。
ここら辺は桂川が向こう側(東側)に膨らむ形で曲がっているので水害も受けづらかったのではないでしょうか。
平たい土地だし、西国街道も走っていましたし、恵まれた土地だったような気がします、何となく。

c0072352_22433401.jpg
663_伏見区羽束師




[PR]
by fdvegi | 2018-11-20 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

玄琢の愛宕灯籠

西賀茂鷹峯の間の微妙な坂道エリアが玄琢(げんたく)です。
西賀茂にも鷹峯(京都市内北寄り)にも区分しがたい感じ。

そんなところにも愛宕色濃厚な石灯籠が発見されました。
もちろんこれもお地蔵ハンターさんによるものです。
いやはや、すごいですね。ありがたし。

c0072352_23024403.jpg
627_北区大宮玄琢北町


これが愛宕灯籠である明確な論拠はないのですが、この玄琢という地名にヒントというか、因縁があります。
これ、元々は人名なのです。野間玄琢さん。

玄琢さんが徳川幕府からこの土地をもらい受けて住んだので、地名が玄琢となったわけです。
もらい受けたのは1615年とされています。

その頃、江戸幕府の将軍職は2代目の秀忠でしたが、秀忠が自らのリーダーシップを発揮したのは家康が死んでからとされています。
で、家康が死んだのは1616年ですから、玄琢にこの地を与えたのは秀忠かもしれないし家康かもしれないということですね。

ここでウィキペディアさん。

野間玄琢(のま げんたく1590~1645)は、天正18年に山城で生まれ、名は成岑、通称を玄琢といい、白雲老人・寿昌院と号した。
曲直瀬玄朔に李朱医学を学び、慶長10年(1605)医学典籍の代講をした。
寛永3年(1626)徳川秀忠の侍医となって江戸に赴き、隔年に江戸に伺候。
同13年(1636)、東福門院の病気治療に功あり、のち後宮に仕えた。

気が付いたでしょうか、「白雲老人」という号に。
そして覚えておいででしょうか、愛宕神社はもともと白雲寺だったことを。
つまり、この号は、私は愛宕の人である、言っているようなものなのです(たぶん)。

愛宕の人で、かつ、家康からもらったその土地とあっては、もう言い逃れできないですよね。
これは愛宕灯籠でしょう。
御土居からもいい感じで外側ですしね。

それにしても、仏教や神道的に「白雲」とか「雲」ってどういう意味合いがあるのでしょうね。
結構たくさんあるのです、「雲」系の寺社仏閣名。
そのたびに幻惑されています。

さて、玄琢さんの師匠は曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)という人で、その人の師匠は医聖と呼ばれる曲直瀬道三(まなせ・どうざん)という人です。つまり、玄琢さんは曲直瀬道三の孫弟子です。

神君伊賀越えと愛宕灯籠に書いた、甲賀市磯尾の明王寺にどういうわけか徳川三代の位牌があるという話や、この曲直瀬道三さんの出自や、道三さんと玄琢さんの師弟関係や、そもそも磯尾という場所には山伏(修験者)いたとか、そういう色んな情報が混然一体となって思わせぶりな感じになってくるのですが、どうにもこうにもまとめきれませんので、それはまた別の話。




[PR]
by fdvegi | 2018-10-16 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

西加茂かな愛宕灯籠、追加

紫竹貴船神社の境内にみつかりました。
これもインスタグラムを通じて情報提供いただきました。
ありがたや。

ここを西賀茂としてよいものか難しいところなのですが、実は、西賀茂と京都市内北寄りでアップした440_、441_、060_が偶然か何か知りませんが一直線に並んでいるのです。
そして、もう一つ、見つかってはいるけどアップできそうにない灯籠が下鴨にありまして、それとも一直線につながります。
で、賀茂川と大宮通と北山通または北大路通で三辺が構成される三角形がその中間点にあたるので、その辺りをけっこう意識して探していました。

c0072352_23103566.jpg
618_北区紫竹西北町


結果的に、紫竹貴船神社はその三角形からは西に外れはするのですが、いかんともしがたく漂う「ここへ移設しました感」。
きっと氏子さんがおられるでしょうから、お話を聞いてみたいものです。
上に並べた3基とは形状も違うので、まったく別の新たな水脈という可能性も秘めています。

そして、このほかに2か所、お地蔵チェイサーに教えてもらっていました。
619_と626_です。
619_は今原公園のかどっこに2基並んでいるという、これ以上ないほどの移設されました感を放っております。
626_は御薗橋のたもとのすぐそばです。
川を挟んですぐ向こうが上賀茂神社なわけですから、なんだか歴史というかいわくというか、そういうものも色々ありそう。

さらに、一個新たに見つかったのが743_で、稲荷神社と併設されていました。
お札入れの中にはしっかりと愛宕神社のお札を確認できました。
西加茂の440_や上賀茂の438_もお稲荷さんが関連しているので、上賀茂・西加茂エリアには、稲荷信仰がしっかり根付いているのかもしれませんね。
なんでなんだろう、すぐそこに上賀茂神社があるというのに。
気になるところです。


c0072352_09372438.jpg
619_北区西加茂南今原町

c0072352_09373081.jpg
626_北区大宮上ノ岸町

c0072352_16433343.jpg
743_北区大宮南田尻町


9月になった途端に忙しくなってしまい、なかなかブログに手が付けられませんが、もう一つ京都市内でカテゴリーしようのないのをアップしたら、いよいよようやく滋賀に着手できそうです。




[PR]
by fdvegi | 2018-09-30 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

NGOの来ない世界

また一人派遣さんが辞めていく。契約延長をしない。
4月から数えると、これで3人目だ。
2人の派遣さんが3日以内に辞めた。
3人目の派遣さんがどうにか居つき、また一人派遣さんを加えることになった。
つまり4人目。
その4人目が今度は1か月で、ほぼ何もしないまま契約期間を終える。

一人目の派遣さんは、文字データをエクセルにコピペしたとき、セルの中で文字列が改行され、セルのサイズが変わったことに慌てふためき、自ら辞めていった。

二人目は、熱心にメモを取っているのでチラッとのぞいてみたところ、ワードを印刷する方法だった。

ファイル→印刷→プロパティ→白黒またはカラー→長辺とじ→OK→印刷

といった具合に。
4日目に胃炎を起こして休み、そのまま出勤しなくなった。

そして、4人目。
金曜日、翌週の水曜日の会議資料を会議の担当係に提出するよう指示したところ、「紙に印刷して決裁を取る・・・?」と確認してきた。
出勤し始めて3度目の金曜であり、3度目の指示だった。
他にも、書類をファイリングするよう指示すると、「パンチで穴をあけて・・・?」と毎回聞いてくる。

「一連の流れ」で物事、作業、仕事をとらえることができない。そう思わざるを得ない。
自ら先を読んで仕事はできないが指示されたことはできる。
という触れ込み(エクスキューズ)なので、指示が悪いのか・教え方が悪いのか、と悩まざるを得なかった。

前のポジションの時も、「要求が高すぎる」と経験豊かな年上の部下に怒られるというか注意をされたので(無視したけど)、求めすぎなのかと悩まずにおれなかった。
バカバカしいと思われるだろうが、これは結構なストレスなのだ。

しかし、いくら何でもひどすぎる。
指示をされても「資料提出」や「ファイリング」ができないのだ(初めての指示でもないにもかかわらず)。

つまり、「指定されたエクセルデータを紙に印刷する」や「指定された書類(紙の束)にパンチで穴をあける」という指示に応えることができるにとどまる。次は恐らく、「印刷した紙を別の指定された紙と一緒にホッチキスで留める」というコマンドが要る。
そう判断せざるを得ない。
愕然とした。

一つの作業や工程をこなすということが、およそできない。
本当にもう愕然とした。
ぼくの経験的に、そういう人たちにはマニュアルや取扱説明書が機能しない。
もう平然と機能しない。
これにも唖然とした。

世の労働市場には、こういう人材がどのくらいいるんだろう。
そして、そうした人材はどのように仕事をしているのだろう。
そうした人材で仕事を回している職場や業界がきっとあって、では、どのようにして彼らを使うのだろう。

昔、ほんの少し「国際協力」関係の仕事に接していた時、発展途上国のお母さんたちを集めて手洗いを教える、というプロジェクトがあることを知って愕然としたことがある。
はぁ?と思った。

しかし、聞けば、そこは昔から水の乏しい土地で、飲食以外の用途で水を使う機会が極めて少なく、学校教育も特に女子に対しては十分に行き届いていないこともあって、手洗いの習慣がなく、結果的に、赤ん坊が衛生状態の悪さゆえに病気になったり死亡したりケースが多いのだが、母親たちはそれが不衛生な手で接することが要因になっていることを知らない、というのだった。
わが子を愛しむその手が害をなすという、あまりにも悲しい話だった。

しかし、手洗いプロジェクトにより、清潔について、衛生について、実際の手の洗い方について教育が行われた結果、その土地の赤ん坊の死亡率は格段に下がったのだという。

職場で1人目と2人目と4人目の派遣さんと接していると、何となくあの「遠さ」を思い出す。
そして、ここにはNGOは来ないことを思い知る。
ぼくはリリースする(手放す、離れる)ことしかしない。

とても悲しい。
しかし、こんなにも悲しいことは誰も知らない。
ただのこわい上司。または、きつい社員。



[PR]
by fdvegi | 2018-09-23 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

御土居と愛宕灯籠

Kyoto and aroundということで、京都周辺の愛宕灯籠を探してまいりました。
そこそこ目鼻がついてきた感があります。
(まだ滋賀の方は全然まとめられておりませんが)

それで、ようよう手を付けましょうという話。神君伊賀越えに続く第二弾です。
早々からわかっていたこととして、京都市内の中心部には愛宕灯籠がない!という事実がありました。
愛宕沙漠と呼んでおりましたね。
本当にないのかなぁ、とその後もごにょごにょ探していたわけですが、はい、見つかっておりません。

306_(玉房稲荷田明神)と618_(紫竹貴船神社)というごく一部の例外がありますが、いずれも神社の境内ということもあり、後世の移設の影響だろうとさらっと思われる次第です。


そういうわけで、やっぱり京都市内中心部には愛宕灯籠はない、ということにしましょう。
では、何故ないのか。
「ある」と「ない」、それを隔てるものは何なのか、です。

これも薄々感づいてはいたものの、実証できないことはもちろん、北の方にボーンと手つかず地帯が広がっていた関係でなかなか言い出せずにいたものがあります。
お土居です。
お地蔵愛好家さんの助けによって上賀茂エリアや西加茂を相当洗えまして、ようやくながら、やっぱお土居だよね、と言ってしまえる気持ちになってきました。

まずはお土居について復習しましょう。
いつものウィキペディア様。

御土居(おどい)は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁である。(略)

秀吉は、あい続く戦乱により不分明となっていた洛中(京都)の境を、御土居の築造により新たに定めようとしたという伝えがあり、御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶことにしたという。ただし、御土居の内部であっても鞍馬口通以北は洛外と呼ばれることもあった。(略)

秀吉が没して間もなく、政権が徳川に移ると、御土居の外の鴨川河川敷に高瀬川が開削され、その畔に商家が立ち並んだことで「洛中」は実質的に鴨川河畔まで広がった。また、洛中西部では洛外に通ずる出入り口が新たに20か所以上設けられた。洛中と洛外の農村の結びつきが強まり「町続き町」が形成されたことで、ここでも実質的な「洛中」の拡大が見られた。(略)

秀吉自身が御土居建設の目的を説明した文献は現存しないが、以下のような理由が推測されている。(略)

以上。
で、お土居の位置がこれです。
c0072352_22573674.jpg
冬色櫻というサイトから拝借しております。


次に、愛宕沙漠を見てみましょう。
go4lilacという方がまとめられたサイトにマイマップがあったので、灯籠マップと重ねてみました。
臙脂のぽつぽつが愛宕灯籠で、 茶色の線が御土居です。
c0072352_23022944.jpg

おおっ。


そういうわけで、愛宕灯籠があるのとのないのを隔てるのはお土居だということがわかります。
お土居が愛宕灯籠の侵入を拒んでいるのです。
何故拒むのか。

ポイントはウィキペディアが教えてくれた以下の点になろうかと思われます。
・秀吉が作った
・目的ははっきりわかっていない
・秀吉が死んだら徳川によってどんどんザル化した

むむ、においますね。(cf. おしり探偵)

神君伊賀越えという知見があることに感謝せずにはおれません。
それは、ものすごく簡単に言うと、
・信長&秀吉:伊賀攻め(伊賀の敵=愛宕の敵=伊賀&甲賀の敵)
・伊賀&甲賀:元々は愛宕修験で共通(忍者愛宕修験説)
・愛宕修験:家康シンパ
という構図でした。

つまり、お土居の真の目的は、家康と愛宕修験とが分かちがたく結びついていることに勘付いた秀吉が、聚楽第(京都市内)から家康シンパ(スパイである愛宕関係)を締め出そうとして築いたものだった、というものです。
もちろん仮説ですが。
どうでしょう。

「知らない」ことは「知らない」のではなく、「知らずにいるための不断の努力の継続的な成果」という人がいます。
これに照らせば、市内中心部に愛宕灯籠が「ない」のは、なんか知らんけどない、のではなくて堅固な意思に基づく作為的な政策によって「ない」状態を維持していたのだし、いざその政策が途切れた暁には、そもそも愛宕灯籠が「ある」必要もなくなり、そこにはただ「ない」ことが普通な世界だけが残っていた、ということではないでしょうか。

ただ、そうなると、愛宕灯籠という愛宕灯籠がすべて「あらん」とする意思に基づいて置かれたことになってしまう、という帰結になりかねないほか、信仰はともかくとして灯籠自体は、実は御土居よりもだいぶ時代が後なんですよね。
この辺のギャップには説明が必要なような気がします。

が、いずれにしましても、愛宕空白地帯が御土居という明確な政策によって形成されていた、という点には揺るぎがないんじゃないかと、そう思うわけであります。




[PR]
by fdvegi | 2018-08-22 00:30 | 京都在住 | Comments(3)

神君伊賀越えと愛宕灯籠②


さぁ、早速、愛宕灯籠マップです。
c0072352_22365795.jpg
黄色が定説、緑が新説、オレンジはさらに新説。
ベッドのマークは宇治田原町郷之口と小川です。


そういうわけで、愛宕灯籠の数的に、神君伊賀越えルートは以下の通りになります。

  • 6/2 四条畷→星田→私市→寺→(かいがけの道)→天王→多々羅→草内→奈島→郷之口/泊
  • 6/3 郷之口→岩山→湯屋谷→奥山田→小川/泊
  • 6/4 小川→多羅尾→諏訪→石川→田中→友田→柘植

定説ルートでは「音羽」という地名が出てきますが、「諏訪」はその西隣で道が続いている集落です。
というわけで、ほぼほぼ定説ルートにかぶってくることになるでしょう。
「音羽(諏訪)→柘植」というのが結構かなり離れているのですが、今回の灯籠トレースにより石川→田中→友田というのを突き止められた事はそれなりに意義深いんではないでしょうか。
(一方で、小川と丸柱の間にもそれっぽいものが一つ見つかってはいるのですよね。はてなマークがそれです。あれはどういうことなんだろう)

ただ、申し上げた通り、津田・尊延寺は通っていないし、交野市には「家康ひそみ藪」というのがあるそうですが、そこには重なっていません。
青矢印が途切れているのはそういうわけです。

とはいえ、そもそも灯籠の発見ぶりは決して完全にはなりえませんので、そこはロマン枠で大目に見ていただきたいところです。

さて、これ以上のルートの割り出しは歴史ファンの皆様にお任せするとして、灯籠的見解を旨とする当サイトでは、以上のプロット作業から以下の仮説を立てずにおれません。

  • 家康は四条畷で偶然信長の死を知ったのではないだろう。むしろ、予定通りの死を、予定していた場所で確認し、その場所をスタート地点とする計画ルートをたどったのだろう(四条畷と堺はけっこう遠い)。
  • 多羅尾氏は愛宕の信者・つまり修験者だったのだろう(多羅尾という地での愛宕灯籠の集中分布)
  • その多羅尾氏が計画ルートのシェルパだった(宇治田原郷之口での宿泊は山口氏の家で、山口氏の光広さんは多羅尾氏からの養子。小川での宿泊は言わずと知れた多羅尾氏の家)
  • だから、計画ルートの目印に愛宕灯籠が使われた(愛宕灯籠は符丁だった) → 実は基本的に灯籠の方が時代が後なのですよねー。

以上。
これに照らすと、ウィキペディアが教えてくれた
  • 木津川の渡しで、わざわざ家康から距離を取っていた穴山信君一行だけが「落ち武者狩り」に襲われて殺されたことにも、
  • 明智藪で光秀が「落ち武者狩り」に襲われて殺されたことにも、
なんとなく統一的な辻褄が準備されるような気がします。

「落ち武者狩り」なる当事者不明の言葉に隠されたドラマにこそ、まさに「忍び」という姿の見えない者の仕事が隠されているのではないでしょうか。

そう、つまり、多羅尾氏(に限定してよいかは疑問符) = (愛宕)修験者 = 忍者 という、「忍者愛宕修験説」がここに成立します。

もちろん、「落ち武者狩り」の重複なんてただの偶然だという主張は当然に有効です。
ただ、「落ち武者狩り」はその後徐々に消滅していったようですが、それが、本能寺の変の後、天正13年から18年にかけての秀吉の政策によるものだということも、何だか因縁めいてはいないでしょうか。
落ち武者狩り禁止 = 忍者禁止。

冒頭の、信楽駅最寄りの陶器神社・愛宕神社・秋葉神社で家康が無事を祈願したことや、その愛宕神社を江戸へ勧請したというのは、どうも後の作り話のような気がします。
宿泊した小川からはちょっと遠いのです。

あるいは、それが本当だとすれば、位置関係的に「さらに新説」ルートをたどっているのかもしれません。
いずれにしても、あえて信楽の神社を勧請する必要はないかと思います。
右京区の本体の方でいい。

というのも、徳川家康はどうも元々勝軍地蔵を信奉していたようです。
  • 勝軍地蔵 = 愛宕 つながりで多羅尾氏とつながり、
  • それで伊賀越えも画策・実現され、
  • それによって、江戸へ勧請した愛宕神社を、わざわざ多羅尾氏の勢力圏の愛宕神社ということにする、という気づかいもなされたのではないでしょうか。

あるいは、家康の勝軍地蔵信仰が愛宕神社の勧請を根拠にしている節もあることを考えると、実は、
  • 多羅尾氏と通じるために愛宕を利用して、
  • その行きがかり上、近所の愛宕神社を勧請し、
  • 勝軍地蔵信仰説も生まれた
というストーリーも可能かもしれません。
権現様による直々の火伏の神の勧請にも関わらず江戸の町が火事だらけだったことは、実はそもそもの信心不足というか「政略勧請」が祟ってのことなのかも。

いずれにしても、「天正伊賀の乱の地・伊賀国に入るが、伊賀の土豪は家康一行を守る姿勢だった」というわけですから、伊賀と家康の間には、信長や伊賀の乱の禍根を乗り越える何かが最初からあったんじゃないかと思われます。
服部半蔵がいちいち説得して回ったとは思われません。
それが何か。

戦と命を超えるもの。
それって祈りじゃね?
というわけで、そう、信仰なんではないでしょうか。

ウィキペディアは「天正伊賀の乱の地・伊賀国に入るが」とわざわざドラマチックにあおっていますが、ぶっちゃけた話、伊賀も甲賀もなかったんはないでしょうか。
おおもとに愛宕信仰があり、愛宕修験者たちがいたのであれば。

それに、天正伊賀の乱は織田信長が主導したし秀吉も加わっているけど、家康の名前はないんですよね(ウィキペディアによると)。
なので、信長の部下だから、天正伊賀の乱の恨みがあるし殺そう、とは、ますますならなかった。
信長の元に潜入してはいるけど、あくまでも俺たちの家康。そういう感覚。
「インファナル・アフェア」的な。「ダブルフェイス」的な。どうだろう。

あと、明智光秀も、本能寺の前に愛宕神社へ行っています。これは有名な話ですね。
はてさて、それが何の行為だったのか。そこで誰に会い、何があったのか。
気になるところですね。
家康の「黒衣の将軍」南公坊天海を光秀とする説も、世にはあります。

話が大いに変わりますが、米沢藩の直江兼続さんは「愛」の兜で有名ですが、「愛」がくっついている土台の部分は雲の模様になっています。
これは白雲寺から愛宕神社へと変遷していった経緯に大いにかぶっていて興味深く、実際、愛宕信仰によるものとの説があるそうです。
そんな兼続には、家康を激怒させながら大した処分を受けなかった「直江状」というエピソードがあります。
その背後にも愛宕信仰がちらついていたのだと妄想するのは、ロマンですね。

日本の戦国時代にも、キリスト教とか政治的集団としての仏教組織とは異なる意味での、宗教戦争的な色合いがあってもいいと思うのです。




[PR]
by fdvegi | 2018-08-20 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

神君伊賀越えと愛宕灯籠①

東京の芝にも愛宕神社があってその急な階段、出世階段で有名なようですが、東京へ愛宕神社を持って行ったのは徳川家康なんだそうです。
家康公直々の勧請ですから、江戸ではさぞ大きな顔をしていたんじゃないでしょうか。
持って行った愛宕神社は何故か京都市右京区のそれではなく、なんと、信楽のものだそう。
それがここ。

c0072352_22231546.jpg

陶器神社と愛宕神社が同時に祀られているようです。
まぁ、製陶では火を使いますから、合理的といえば合理的ですよね。

近くの新宮神社のホームページによると、秋葉神社も祀られているようです。こちらも火の神様。
近辺で最も規模の大きな神社があたりの小さな神社を一括して管理しているのでしょう。
統合管理は避けられない世の流れですね。

さて、どうして徳川家康が、どうして信楽の愛宕さんを、という点ですが、どうも本能寺の変に際しての逃避行の際、徳川家康がここで無地を祈ったからだとか。
そして、この逃避行が「神君伊賀越え」といって、知る人の間ではかなり有名な話なのだそうです。
このたび初めて知りました。
というわけで少し調べてみました。
といっても、ウィキペディアに教えてもらうわけですが。

と、その前に、小栗栖で明智藪に言及しました。
本能寺の変の後、いわゆる三日天下の果てに光秀が討たれたすぐそばにも、愛宕灯籠がありましたね。
しかも、それは秋葉灯籠との一体型でした。

秋葉灯籠といえば秋葉神社の灯籠で、本拠地は浜松です。
浜松といえば、徳川家康です。
秋葉と家康の関係は不明なんですが、うむむ、此は如何に。

さてウィキペディア。

概要
天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が発生した。家康は本能寺の変の報に際して取り乱し、一度は、光秀の支配下にある京都に上り松平家にゆかりのある知恩院(浄土宗鎮西派総本山)に駆け込んで自刃すると主張した。しかし本多忠勝を始めとする家臣たちに説得されて帰国を決意し、伊賀国を経由して、三河国へ帰還した。
経路
家康は摂津国堺(大阪府堺市)の松井友閑屋敷から京都へ上洛する途中で、河内国飯盛山付近で京都から来た茶屋四郎次郎に本能寺の変での信長横死を知らされた。河内国四條畷(大阪府四條畷市)からわずかの供回りを連れて、まず現・京都府田辺市興戸の木津川の渡しに行くが、家康らを疑い距離を取っていた穴山信君一行が落ち武者狩りに襲われ殺された。山城国宇治田原(京都府宇治田原町)で土豪山口氏館に宿泊し、3日は、宇治田原から近江国甲賀小川(滋賀県甲賀市)で土豪多羅尾氏の館に宿泊する。4日は、御斎峠から天正伊賀の乱の地・伊賀国に入るが、伊賀の土豪は家康一行を守る姿勢だった。伊賀国柘植(三重県伊賀市)を経て、加太峠で一揆に襲われたが山口定教率いる甲賀郷士が追い払い、伊勢国長太で乗船し、三河の大浜にたどり着き、三河国岡崎城(愛知県岡崎市)へ帰還した。

要は、6/1に国の強権トップ信長が殺され、その翌日6/2、重臣たる家康が、大ボス信長の旧敵の地を通り抜けて、大急ぎで地元へ帰ったという話です。
その頃、家康は大阪の堺に滞在していて、堺の北に当たる四条畷辺りで信長死亡の知らせを6/2に聞き受けたようです。

そこから一気呵成に、
  • 6/2 四条畷→京田辺興戸→宇治田原/泊
  • 6/3 宇治田原→小川/泊
  • 6/4 小川→御斎峠→柘植→加太峠→長太→(船)→三河大浜→岡崎
というルートをたどったとのこと。

以上がウィキペディア情報のまとめです。

しかし、この伊賀越えについては色々とわかっていないことが多いようで、その不確かさが歴史ファンたちの心をくすぐっているようです。歴史ロマンですね。
色々なサイトをうろつけばうろつくだけ色々な説が出てきます。

特に、6/4の小川-柘植間には有力な(と思われる)二説があります。
定説は、小川から御斎峠(おとぎとうげ)を南へ多羅尾まで下りて、そこから音羽郷などを経て柘植を目指す伊賀どっぷりコース。
新説は、小川をそのまま東に行って柘植を目指す甲賀と伊賀の橋渡しコースです。
もっと新説は、小川から東に行くものの、さらにやや北上して油日を経由するというものです。

基本的に定説ですが、同じ定説でも細かな違いは色々あるようです。

新説を支持している(らしい)のが日文研の准教授の磯田道史さんということで、なんとなくこっちに流れたいような気もしますが、灯籠はどちらかというと南側に充実していました。
磯田准教授の言及している明王寺(みょうおうじ)の近くにも、確かに灯籠があるのが驚きではありますが、だからといってここまで北上してから柘植へ下りて行ったとは考え難い気がします。

それと、四条畷の辺りから京田辺へ至るルートは交野から津田・尊延寺を経由するというのが定説のようですが、この津田・尊延寺辺りでは愛宕灯籠は見つかっていないのですよね。
津田は探したけど本当になかったんです。

で、今のところ、京田辺市の天王に一基存在が確認されていますので、位置関係を考えると、交野市の寺という場所から「かいがけの道」を伝って山中に入り、そこから天王→普賢寺(多々羅)と行ったのではないかという気がします。
定説に比べるとこちらも下(南)回りです。

次回、愛宕灯籠マップで確認してみましょう。



[PR]
by fdvegi | 2018-08-18 00:30 | 京都在住 | Comments(2)

上賀茂でも愛宕灯籠を追加

当初ないないと思っていた上賀茂
ここぞという場所でやっと見つかったのは、当然というか、上賀茂神社の北側でした。
鞍馬市原辺りの流れを汲む場所でした。
が、なんと上賀茂神社の南でも出てきました。
正直びっくり。

ひとつは竹鼻地蔵尊というお地蔵さんおお堂の中に立っておりました。
お地蔵さんということで、これもやはりインスタグラムで京都市内の地蔵マスターに教えてもらいました。
京都市内はほんと、その人にお任せしたほうが効率的なんではないだろうか。

c0072352_20194323.jpg
625_北区上賀茂蝉ケ垣内町


もう一つは、竹鼻地蔵尊から少し北。
うわ。
こんな大々的にあったんですか!という感じ。
上賀茂神社のご威光の濃い一帯、いわゆる社家界隈では存在しえないような気がしていました。

c0072352_20194621.jpg
624_北区上賀茂向梅町


ところがどっこい、寄進者として刻んである名前は、下鴨神社の宮司さんと同じ苗字なのです。
どういう関係があるかはもちろん知りませんが、下鴨と上賀茂の関係で、かつ上賀茂の社家界隈ですからね、やっぱり関係者でいらっしゃるのではないでしょうか。
賀茂社と愛宕、この深淵なる、大物たちの交友図。

それともただの下衆の勘繰りか。




[PR]
by fdvegi | 2018-08-08 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

太秦の愛宕灯籠、さらに追加

太古の昔、それこそ松室の月読神社辺りが繁栄していたころでしょうか、秦氏が本拠地としていたらしい太秦
いや、太秦が繁栄するより前に、むしろ月読神社があったのでしょうか。
よくわかりません、本当に。

とにかくそんな太秦に愛宕灯籠を再発見。
これまたインスタグラムのお地蔵さんハンターに教えていただきました。
線路沿いの123_は見つけてあって、ちょうどの通りの南側にあります。
最初からもう少し探しておけばよかったんですが、まぁいいや。

c0072352_20120868.jpg
620_右京区海正寺町


車僧影堂という、市内屈指の謎めきポイントの入り口辺りに立っています。
この写真の左手奥に進むと車僧影堂というのが出てきます。
四文字熟語のように見えますが、正しくは「車僧(くるまそう)」と「影堂(えいどう)」の二語で構成されています。
車僧というお坊さんの像(人形)をお祀りするお堂、ということです。

太秦も謎ですが、この車僧さんも並々ならぬ謎のようで、実在はされたようです。鎌倉時代。
車僧というのはニックネームで、本名は深山正虎(しんざん・しょうこ)、九州生まれだそうです。

福岡の箱崎で師匠の下で修業した後、どういうわけか(師匠が東福寺の10世になったのについてきた?)京都の嵯峨野へやって来て、海正寺というのを建て、いつも壊れた車に乗っていたそうな。
だからニックネームが「車僧」。
しかも、当時700年前の話ばっかりするから「七百歳」というニックネームもあるそうな。はぁ?
いや、もうかなり意味不明です。

そして恐ろしいことに、「車僧」という題の能があるというのです。
車僧さんが嵯峨野の地で天狗を相手に神通力決戦を行い、打ち勝ってしまうという話。
その相手の天狗が、なななんと、太郎坊、そう、愛宕の大天狗なわけです。

ええー。うわぁ。
なんてこった。
愛宕だ。
こんなにも直接に愛宕と嵯峨野(太秦含む)が共演するなんて!

なんかもう登場人物(エピソード)が多すぎてようようまとめきれませんが、その物的証拠(?)が620_愛宕灯籠というわけです。
これはもう一見の価値しかありません。




[PR]
by fdvegi | 2018-08-04 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

西京極の愛宕灯籠、また追加です

旧山陰通は愛宕スポットということで断続的に愛宕灯籠を見つけてまいりましたが、またあった。
集積地、西京極
これまたインスタグラムの知り合いに教えていただきました。

c0072352_20061387.jpg
622_右京区西京極東町


これは古いですね。
お隣の家の人に尋ねてみたんですが、よくご存じありませんでした。
とにかく昔からあると。

しかしこうして見てみると、最初から当たり前だったのかもしれませんが、京都市内南寄りで紹介した307_も旧山陰通というカテゴリーになるのですね。
綱敷行衛天満宮をはじめとして、確かに味わい深い一帯なので、もうちょっと出てきてもいいような気がします。




[PR]
by fdvegi | 2018-07-31 00:30 | 京都在住 | Comments(0)