御土居と愛宕灯籠

Kyoto and aroundということで、京都周辺の愛宕灯籠を探してまいりました。
そこそこ目鼻がついてきた感があります。
(まだ滋賀の方は全然まとめられておりませんが)

それで、ようよう手を付けましょうという話。神君伊賀越えに続く第二弾です。
早々からわかっていたこととして、京都市内の中心部には愛宕灯籠がない!という事実がありました。
愛宕沙漠と呼んでおりましたね。
本当にないのかなぁ、とその後もごにょごにょ探していたわけですが、はい、見つかっておりません。

306_(玉房稲荷田明神)と618_(紫竹貴船神社)というごく一部の例外がありますが、いずれも神社の境内ということもあり、後世の移設の影響だろうとさらっと思われる次第です。


そういうわけで、やっぱり京都市内中心部には愛宕灯籠はない、ということにしましょう。
では、何故ないのか。
「ある」と「ない」、それを隔てるものは何なのか、です。

これも薄々感づいてはいたものの、実証できないことはもちろん、北の方にボーンと手つかず地帯が広がっていた関係でなかなか言い出せずにいたものがあります。
お土居です。
お地蔵愛好家さんの助けによって上賀茂エリアや西加茂を相当洗えまして、ようやくながら、やっぱお土居だよね、と言ってしまえる気持ちになってきました。

まずはお土居について復習しましょう。
いつものウィキペディア様。

御土居(おどい)は豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁である。(略)

秀吉は、あい続く戦乱により不分明となっていた洛中(京都)の境を、御土居の築造により新たに定めようとしたという伝えがあり、御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶことにしたという。ただし、御土居の内部であっても鞍馬口通以北は洛外と呼ばれることもあった。(略)

秀吉が没して間もなく、政権が徳川に移ると、御土居の外の鴨川河川敷に高瀬川が開削され、その畔に商家が立ち並んだことで「洛中」は実質的に鴨川河畔まで広がった。また、洛中西部では洛外に通ずる出入り口が新たに20か所以上設けられた。洛中と洛外の農村の結びつきが強まり「町続き町」が形成されたことで、ここでも実質的な「洛中」の拡大が見られた。(略)

秀吉自身が御土居建設の目的を説明した文献は現存しないが、以下のような理由が推測されている。(略)

以上。
で、お土居の位置がこれです。
c0072352_22573674.jpg
冬色櫻というサイトから拝借しております。


次に、愛宕沙漠を見てみましょう。
go4lilacという方がまとめられたサイトにマイマップがあったので、灯籠マップと重ねてみました。
臙脂のぽつぽつが愛宕灯籠で、 茶色の線が御土居です。
c0072352_23022944.jpg

おおっ。


そういうわけで、愛宕灯籠があるのとのないのを隔てるのはお土居だということがわかります。
お土居が愛宕灯籠の侵入を拒んでいるのです。
何故拒むのか。

ポイントはウィキペディアが教えてくれた以下の点になろうかと思われます。
・秀吉が作った
・目的ははっきりわかっていない
・秀吉が死んだら徳川によってどんどんザル化した

むむ、においますね。(cf. おしり探偵)

神君伊賀越えという知見があることに感謝せずにはおれません。
それは、ものすごく簡単に言うと、
・信長&秀吉:伊賀攻め(伊賀の敵=愛宕の敵=伊賀&甲賀の敵)
・伊賀&甲賀:元々は愛宕修験で共通(忍者愛宕修験説)
・愛宕修験:家康シンパ
という構図でした。

つまり、お土居の真の目的は、家康と愛宕修験とが分かちがたく結びついていることに勘付いた秀吉が、聚楽第(京都市内)から家康シンパ(スパイである愛宕関係)を締め出そうとして築いたものだった、というものです。
もちろん仮説ですが。
どうでしょう。

「知らない」ことは「知らない」のではなく、「知らずにいるための不断の努力の継続的な成果」という人がいます。
これに照らせば、市内中心部に愛宕灯籠が「ない」のは、なんか知らんけどない、のではなくて堅固な意思に基づく作為的な政策によって「ない」状態を維持していたのだし、いざその政策が途切れた暁には、そもそも愛宕灯籠が「ある」必要もなくなり、そこにはただ「ない」ことが普通な世界だけが残っていた、ということではないでしょうか。

ただ、そうなると、愛宕灯籠という愛宕灯籠がすべて「あらん」とする意思に基づいて置かれたことになってしまう、という帰結になりかねないほか、信仰はともかくとして灯籠自体は、実は御土居よりもだいぶ時代が後なんですよね。
この辺のギャップには説明が必要なような気がします。

が、いずれにしましても、愛宕空白地帯が御土居という明確な政策によって形成されていた、という点には揺るぎがないんじゃないかと、そう思うわけであります。




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by fdvegi | 2018-08-22 00:30 | 京都在住 | Comments(3)
Commented by 幡枝人 at 2018-08-31 23:45 x
こんばんは。ご無沙汰しております。
先日、速水御舟の「洛北修学院村」の絵を見ましたところ、画面の中央右下あたりに灯籠が描かれていまして、それが愛宕灯籠No.001や006にそっくりなんです!ぜひ見てみて下さい!
https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Hayami-Shugakuin-1918.jpg#mw-jump-to-license
Commented by 幡枝人 at 2018-08-31 23:49 x
間違えました。No.002と瓜二つです!
Commented by fdvegi at 2018-09-04 00:53 x
おぉー!これはしびれる発見。すごいですね。
確かにとんがり屋根の感じとか形的に2番ぽいですね。比叡山の前にもうひと山ある感じも、あの辺りな気がします。
ただ、(少なくとも今の)2番は修学院離宮のすぐそばで、修学院離宮は1918年よりも前からあったようですから、離宮はどこだ?という疑問は湧きますね。
とはいえ、1番や6番だとすると(上高野もかつては修学院村ではあったようですが)、こちらはこちらで水車が多い一帯なので、その水車や、すぐそばを流れる大きな川である高野川が描かれていないのが腑に落ちません。

いずれにしても、すごい発見ですね。
速水御舟という人も初めて知りましたが、素敵な絵ですね。
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