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神君伊賀越えと愛宕灯籠①

東京の芝にも愛宕神社があってその急な階段、出世階段で有名なようですが、東京へ愛宕神社を持って行ったのは徳川家康なんだそうです。
家康公直々の勧請ですから、江戸ではさぞ大きな顔をしていたんじゃないでしょうか。
持って行った愛宕神社は何故か京都市右京区のそれではなく、なんと、信楽のものだそう。
それがここ。

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陶器神社と愛宕神社が同時に祀られているようです。
まぁ、製陶では火を使いますから、合理的といえば合理的ですよね。

近くの新宮神社のホームページによると、秋葉神社も祀られているようです。こちらも火の神様。
近辺で最も規模の大きな神社があたりの小さな神社を一括して管理しているのでしょう。
統合管理は避けられない世の流れですね。

さて、どうして徳川家康が、どうして信楽の愛宕さんを、という点ですが、どうも本能寺の変に際しての逃避行の際、徳川家康がここで無地を祈ったからだとか。
そして、この逃避行が「神君伊賀越え」といって、知る人の間ではかなり有名な話なのだそうです。
このたび初めて知りました。
というわけで少し調べてみました。
といっても、ウィキペディアに教えてもらうわけですが。

と、その前に、小栗栖で明智藪に言及しました。
本能寺の変の後、いわゆる三日天下の果てに光秀が討たれたすぐそばにも、愛宕灯籠がありましたね。
しかも、それは秋葉灯籠との一体型でした。

秋葉灯籠といえば秋葉神社の灯籠で、本拠地は浜松です。
浜松といえば、徳川家康です。
秋葉と家康の関係は不明なんですが、うむむ、此は如何に。

さてウィキペディア。

概要
天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変が発生した。家康は本能寺の変の報に際して取り乱し、一度は、光秀の支配下にある京都に上り松平家にゆかりのある知恩院(浄土宗鎮西派総本山)に駆け込んで自刃すると主張した。しかし本多忠勝を始めとする家臣たちに説得されて帰国を決意し、伊賀国を経由して、三河国へ帰還した。
経路
家康は摂津国堺(大阪府堺市)の松井友閑屋敷から京都へ上洛する途中で、河内国飯盛山付近で京都から来た茶屋四郎次郎に本能寺の変での信長横死を知らされた。河内国四條畷(大阪府四條畷市)からわずかの供回りを連れて、まず現・京都府田辺市興戸の木津川の渡しに行くが、家康らを疑い距離を取っていた穴山信君一行が落ち武者狩りに襲われ殺された。山城国宇治田原(京都府宇治田原町)で土豪山口氏館に宿泊し、3日は、宇治田原から近江国甲賀小川(滋賀県甲賀市)で土豪多羅尾氏の館に宿泊する。4日は、御斎峠から天正伊賀の乱の地・伊賀国に入るが、伊賀の土豪は家康一行を守る姿勢だった。伊賀国柘植(三重県伊賀市)を経て、加太峠で一揆に襲われたが山口定教率いる甲賀郷士が追い払い、伊勢国長太で乗船し、三河の大浜にたどり着き、三河国岡崎城(愛知県岡崎市)へ帰還した。

要は、6/1に国の強権トップ信長が殺され、その翌日6/2、重臣たる家康が、大ボス信長の旧敵の地を通り抜けて、大急ぎで地元へ帰ったという話です。
その頃、家康は大阪の堺に滞在していて、堺の北に当たる四条畷辺りで信長死亡の知らせを6/2に聞き受けたようです。

そこから一気呵成に、
  • 6/2 四条畷→京田辺興戸→宇治田原/泊
  • 6/3 宇治田原→小川/泊
  • 6/4 小川→御斎峠→柘植→加太峠→長太→(船)→三河大浜→岡崎
というルートをたどったとのこと。

以上がウィキペディア情報のまとめです。

しかし、この伊賀越えについては色々とわかっていないことが多いようで、その不確かさが歴史ファンたちの心をくすぐっているようです。歴史ロマンですね。
色々なサイトをうろつけばうろつくだけ色々な説が出てきます。

特に、6/4の小川-柘植間には有力な(と思われる)二説があります。
定説は、小川から御斎峠(おとぎとうげ)を南へ多羅尾まで下りて、そこから音羽郷などを経て柘植を目指す伊賀どっぷりコース。
新説は、小川をそのまま東に行って柘植を目指す甲賀と伊賀の橋渡しコースです。
もっと新説は、小川から東に行くものの、さらにやや北上して油日を経由するというものです。

基本的に定説ですが、同じ定説でも細かな違いは色々あるようです。

新説を支持している(らしい)のが日文研の准教授の磯田道史さんということで、なんとなくこっちに流れたいような気もしますが、灯籠はどちらかというと南側に充実していました。
磯田准教授の言及している明王寺(みょうおうじ)の近くにも、確かに灯籠があるのが驚きではありますが、だからといってここまで北上してから柘植へ下りて行ったとは考え難い気がします。

それと、四条畷の辺りから京田辺へ至るルートは交野から津田・尊延寺を経由するというのが定説のようですが、この津田・尊延寺辺りでは愛宕灯籠は見つかっていないのですよね。
津田は探したけど本当になかったんです。

で、今のところ、京田辺市の天王に一基存在が確認されていますので、位置関係を考えると、交野市の寺という場所から「かいがけの道」を伝って山中に入り、そこから天王→普賢寺(多々羅)と行ったのではないかという気がします。
定説に比べるとこちらも下(南)回りです。

次回、愛宕灯籠マップで確認してみましょう。



by fdvegi | 2018-08-18 00:30 | 京都在住 | Comments(2)
Commented by omachi at 2018-08-18 20:38 x
歴史探偵の気分になれるウェブ小説を知ってますか。 グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索するとヒットし、小一時間で読めます。北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。 その1からラストまで無料です。夢殿と同じ八角形の北円堂を知らない人が多いですね。順に読めば歴史の扉が開き感動に包まれます。重複、 既読ならご免なさい。お仕事のリフレッシュや脳トレにも最適です。物語が観光地に絡むと興味が倍増します。平城京遷都を主導した聖武天皇の外祖父が登場します。古代の政治家の小説です。気が向いたらお読み下さいませ。(奈良のはじまりの歴史は面白いです。日本史の要ですね。)

読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。
Commented by fdvegi at 2018-08-19 19:55 x
ありがとうございます!
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