久御山町の愛宕灯籠

城陽を紹介して、ようやく南側の書き方に端緒を見いだせた気がします。
次は久御山町(くみやま ちょう)。
ウィキペディアによると、「久世郡」の「御牧村」と「佐山村」が合併してできた町とのこと。
なかなか上手な命名だなと思います。響きがきれい。

さて、それで愛宕灯籠ですが、驚いたことにここにもあります。まじで、と思わずにいられなかった。
というのも、なかなか失礼な話ではありますが、久御山って元々は巨椋池という巨大な池(の跡地)とその周りにある途方もない農地というイメージだったのです。

言葉は違いますがイメージでいうと、そう、荒野ですよね、アメリカ映画なんかの西部。
しかーし、ふたを開けてみるとしっかとあった。
しっとりとした重厚感のある集落があった。
だから灯籠もあった。

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260_久御山町佐山

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361_久御山町下津屋

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378_久御山町市田

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379_久御山町市田

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380_久御山町市田

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381_久御山町池之坊


大半は旧佐山村ですが、しかし旧御牧村にも見つかっています。
それが381_です。
2つの愛宕灯籠が立ち並ぶ姿は今のところこれと260_くらいでしょうか。
久御山町の特徴ですね。

380_は織部灯籠という形式のようで、もっぱら愛宕灯籠に使われていることはありません。
これが唯一です。
となると、これが本当に愛宕灯籠なのかという疑念が生じてくるわけですが、はい、恐らくそうです。
379_と一直線上に同じ通りの上にあるし、火袋を見ると、明確に使われている感があります。
装飾美の世界である織部灯籠が実際に使われている、煤が付いているのってほぼほぼ見かけません。
これは、もともとの愛宕灯籠の脚の部分が細るか折れるかして、そこだけを交換したんではないかと推測されます。

361_は式内社室城神社という神社にありました。移設でしょうか。
奈良時代に創始されたそうです。
それを考えるとやはり、文化そのものは奈良から木津川に乗ってやってきたのかもしれません。
そして後に川をさかのぼって愛宕の文化がやってきたのだろうか。

昔やった軍事シミュレーションゲームみたいに、超早回しで時代の変遷を追ってみたい。




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# by fdvegi | 2018-05-19 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

城陽南側の木津川周りの愛宕灯籠

城陽市内を少し南に下って、木津川沿いです。
木津川沿いに神社があって、その神社に灯籠もあります。
いつの段階かに神社へ移されたんではないでしょうか。

川にそって集落が作られ、川に乗って文化が伝わったのでしょう。
川自体は、愛宕山のある北西に向かって、愛宕山からは遠くなる南東から流れていくことを考えると、「上り」の船便が出されていたんですかね。
そもそも、ここらが京下りの文化なのか、古都奈良上りの文化なのか、気になるところでもあります。

旧枇杷庄村(論文より)
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365_城陽市枇杷庄

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366_城陽市枇杷庄


旧水主村(論文より)
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367_城陽市水主

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368_城陽市水主


富野荘
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364_城陽市富野


奈島
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371_城陽市奈島

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372_城陽市奈島


奈島の372_は賀茂神社の鳥居のすぐ足元にあります。
奈良に加茂神社があるのは存じていましたが、こんなところにもあるのですね。
賀茂族恐るべし。

それに何より、この灯籠のすぐ近くに「城陽」という酒蔵があります。
京都の酒といえば、伏見とその他、あとは日本海側、くらいのイメージしか持っていなかったので驚き半分で飲んでみましたが、ひゃあ、おいしい!
ぼくは伏見よりも断然好きです。

なお、ここでも旧枇杷庄村と旧水主村の分は山本論文でカバーされています。




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# by fdvegi | 2018-05-13 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

タイの剥落

結婚指輪に重ねてつけていた指輪が壊れてしまった。
一応99.99%という触れ込みの金でできた針金で編んだような作りだった。
だから、かっちりと固くはなく、シロツメグサで編んだ輪っかのように、ある程度柔軟に変形する。
プリミティブにクール! と惚れ込んでタイ滞在中に購入したものだ。

卵が先か鶏が先か知らないが、指の付け根のところが妙に荒れてしまい、一時的に指が太くなった。
そこへもってきて指輪の針金状の金が折れて、荒れた皮膚をさらに傷つけるようになった。

仕方がないので出先ではずして持ち運んでいるうちに、変な力がかかって一層変形し、さらに金が折れ、という悪循環に陥った。
どういうわけだか指の付け根は付け根でなかなか治りきらないし、修理に出すにもバンコクは遠いしで、静かにフェイドアウトしていくんじゃないかなって気がしている。
さみしいけれど仕方がない。

ついでに、通勤用のリュックにつけていたモン族のラッキーチャームも糸が切れて外れてしまった。
よく覚えている、妻と行ったチェンマイで買ったものだ。
ぼくが緑で妻はオレンジ。

タイ前とタイ後とで、ちょうど子どものない夫婦から子どものいる家族になり、また、車に乗らない生活から車なしでは立ち行かない暮らしへと、なかなかドラスティックに色んなことが変わった。
だから、今も延々「タイ後」に属している気がしていたが、思えば、タイ後2つ目の部署である今のポジションも3年目に入っており、平成24年10月1日の帰任時から数えれば6年近くが過ぎている。
娘も5歳になった。

もはやタイ後ではない。

本当にそうなのだ。
くだらないパロディーとかパクリではなく、今はもうタイ後ではない。
黄金のリングとモン族が教えてくれた。
タイ後ではない自分はどう生きるか、その方向を考え、覚悟を決めなくてはいけない。
決定をする時なのだ。

思えば、そうか、40歳だ。


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# by fdvegi | 2018-05-08 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

宇治から城陽にかけての愛宕灯籠

村の境界に関する一考察」という学術論文があって、園田学園女子大学の山本紀世子という教授が講師時代の1992年に、古老の話を聞くなど当時の史実を足で追いかけて調べ上げた記録です。
なので、その報告はなかなか迫力があります(論旨の良しあしはわかりません)。

お地蔵さんやお祭りを「村の境界を示すもの」として扱っており、愛宕灯籠は「お地蔵さんの他にも・・・」程度の扱いです。
これには、「道祖神的な役割とは異なる機能も持つ。むしろそっちが主か」とするぼくの素人的愛宕灯籠観とは相いれない節はありますが、とにかく、その見取り図は有益です。

というわけで、論文の愛宕灯籠たちを追いかけてきました。

宇治市大久保(旦椋神社)
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362_宇治市大久保町

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363_宇治市大久保町


旧平川村(論文より)
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377_城陽市平川

旧寺田村(論文より)
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373_城陽市寺田

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374_城陽市寺田

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375_城陽市寺田

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376_城陽市寺田



旧寺田村の375_と376_は一見すると到底愛宕灯籠には見えません。
ただ、山本教授が調査の中で古老をはじめとする地元の人たちから聞き取りを行ったことは想像に難くなく、少なくとも人々が愛宕灯籠として取り扱っていたのだと考えてよいと考えています。

旧平川村の377_に至っては場所も変わっているようでした。
元々、蓮開寺の近くにあったのだと思われますが、周囲がかなり宅地開拓されており、そのあおりで平井神社の境内に移動したのではないかという見立てです。境内の中でもかなり不思議な場所にあります。
愛宕灯籠っぽくない形なので実は全く関係なく、論文で示された愛宕灯籠はすでに撤去された、という顛末の可能性も否定はできません。

論文の管轄外ですが、少し北の宇治市大久保というところには旦椋神社(あさくら じんじゃ)という変わった読み方をする立派な神社がありまして、ここにも2基ありました。
移設なんじゃないかなとは思うけど、ここに挙げた7基は基本的にスドーンと北から南への一直線の帯の上に位置してます。
ちょっとわくわくする感じです。




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# by fdvegi | 2018-05-07 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

高島市の愛宕灯籠

愛宕捜索を始めて以来、長らくの間、最北でありつづけているのが高島市のこの灯籠です。

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233_高島市安曇川町田中


正直、どうしてここにあるのかさっぱりわかりません。
移設されてここへきているようですが、それしたって何十キロも移動させたわけではないでしょうから、元々高島辺りなんだろうと思われます。

西近江路の果てなのかもしれませんが、西近江路という意味では、この灯籠の一つ南が比良の451_で、だいぶ離れています。
間に分断があるといって差し支えないレベルだと思います。

次に考えられるのが山側からの影響ですが、朽木に辺りに見つけられていません。
葛川の235_止まりです。これもだいぶん離れています。

むむむー。




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# by fdvegi | 2018-05-03 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

大津市比良の愛宕灯籠

これまで右手に琵琶湖に見ながら西近江路を北上してきました。
ウィキペディアによると西近江路は大津市衣川というところから始まるそうですが、その真隣というか一部みたいになっているのが堅田です。

その堅田に端を発し、真野小野和邇蓬莱木戸荒川と、もう石灯籠にあふれておりました。
湖西のみならず滋賀の灯籠文化はすごいとしか言いようがないというのが実感です。

で、名もなき灯籠たちに紛れて確かな存在感を放っているのが愛宕灯籠と秋葉灯籠ですが、もう一つ着実に存在を主張しているのが白髭神社へのルートを示す白髭灯籠です。

思えば、堅田から仰木へ行く道、つまり西近江字とは直交する交差点のそばに白髭灯籠がありました。
西近江路は「白髭街道」でもあったのかもしれません。

さて、近江舞子でもようやく一つ見つかりました。やっとあった。

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左隣には気になる石造物もあります。
ここまで上ってくると比良山信仰なんかも入り混じっているのかもしれませんね。

嘘(フィクション)か誠(史実)か、こういう話もあるようです。

京の都を囲んで天狗が棲んだ山は、愛宕山、鞍馬山そして比叡山。
このうち比叡山にもともといた天狗は、愛宕山の太郎坊と並ぶ大天狗でしたが、天台宗を興した最澄らの法力の強い僧が比叡山に入って来たことから、比叡山を出て京の隣、近江国(滋賀県)の琵琶湖を臨む比良山に移ったとされています。この大天狗の名前は日本の八天狗に数えられる「比良山治朗坊」。

言うまでもなく興味深いですね。




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# by fdvegi | 2018-04-28 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

湖西山側にも愛宕灯籠を追加

同じ伊香立の下龍華では見つかっていたので、上龍華にないはずはない、と思いつつも一向に見つけ出せずにいました。それがようやく見つかりました。
しかも、あるべきところにちゃんとあった、という感じです。
けっこう熱心に探していたつもりだったんですが、まだまだ甘かったです。

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457_大津市伊香立上竜華町


とにかく、これでぐぐっと山に入り込みました。

相変わらず、大原以北(以東)の古知平や小出石、途中峠、さらに同じ伊香立でも西側(在地町辺り)では見つかっていません。
そうなると、龍華の灯籠は上下いずれも琵琶湖側からやってきたのかな、という気はしますが、引き続き捜索したいと思います。

はたして左京区と琵琶湖西岸は愛宕灯籠でつながるでしょうか。




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# by fdvegi | 2018-04-24 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

物集女に愛宕灯籠を追加

嵐山から松尾神社を経由して桂へと至る南北の一帯に、仮に一続きの意味や一体感があると仮定すれば、その背骨の少なくとも一部になっているのが物集女街道ということになります。

物集女の愛宕灯籠としてくくったのは、山陰街道や西国街道という東西のラインへのアンチテーゼとして、南北ラインを示したいという愛宕的野心だったのでしょう。

なるほど、若き日の(1年以内だけど)その野心は、今もなお正鵠を射ているのではないかと思います。愛宕山のすぐ裾野には保津川→桂川という大きな水が流れており、平地に至って嵯峨野太秦へと東進するのが主流だったとしても、そのまま川を伝って南下するものがないのは、それはそれで不自然だと思うのです。

桂辺りでは山陰街道ラインと、吉祥院辺りでは西国街道ラインとぶつかってその印象が飲み込まれてしまうものの、松尾や上桂の辺りで見つかる灯籠は、まさに愛宕直通南北ラインのあり様を示しているのだと思います。

というわけで、今回、追加で見つかったのが448_。074_のすぐそばでした。
074_も夏の盛りは茂みに抗えませんでしたが、今回はどうにか姿の一部をとらえられました。

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448_西京区山田葉室町

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074_西京区松尾上ノ山町(再掲)




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# by fdvegi | 2018-04-19 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

花脊の愛宕灯籠

幡枝人さんから情報提供いただきました。
驚きの花脊。

松上げあるところ灯籠なし、の理論で行くと花脊に愛宕灯籠はないはずでした。
が、ありました。
しかし、幡枝人さんがすでに先回りして、松上げをしているのは花脊でも八桝という場所で、この灯籠がある別所というところは、同じ花脊でも南側だと教えてくれたのです。
なるほど!

そういうわけで、鞍馬の奥の奥の奥へとえんやこら行ってきました。
九十九折りという言葉そのままの、すごい道。
すごい道の先に集落あるのも驚きでした、ほんとに。

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458_左京区花脊別所町


この灯籠です。
大工さんがちょうど隣の祠を修理していたので聞いたところ、元々はもう少し北の不便なところにあったそうです。
それを移して来られたそうで、周辺にはもう愛宕灯籠はないということでした。

まさに最果ての灯籠であり、山ごと焼くという愛宕信仰の原形に最も近い位置にある灯籠です。
松上げの残り火がここで灯籠に移されたのだと、そう虚構化したいレベル。
お札箱の装飾も、鞍馬二ノ瀬市原岩倉へと南へ受け継がれていきます。

実に興味深い。




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# by fdvegi | 2018-04-13 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

旧田中村の愛宕灯籠

出町柳を拠点駅とする叡山電鉄、略して叡電に「元田中」という駅があります。
変な名前だなと思っていたら、すぐ近くに田中神社という有名じゃないけど大きな神社があるのでした。構えなんかもかなり立派です。孔雀までいます。
創建は863年という話もあるそうで、めちゃくちゃ古いです。

そして、田中神社の辺りを昔は田中村といっていました。
日文研に古地区データベースがあるのですが、そこに収蔵されている「古今都細見之圖」という地図にも「田中村」として登場しています。

地図の成立が江戸時代の1860年初期で、地図の内容は平安から鎌倉時代だそう。
また、「中古京師内外地図」という別の古地図では「田中ノ里」になっています。
こちらは同じ江戸時代の1750年に成立し、平安から安土桃山時代の様子を描いているとのこと(千年くらいあります。一枚の地図に描くにはレンジが長すぎじゃないでしょうか)。

古地図というのも難しいものですね。
常に現時点を描くわけじゃない、という、そりゃそうか的なことに改めて気づかされます。
そうやって世界は複層的になっていくのですね。

まぁとにかくそういうわけで、元田中駅の付近は旧田中村というところで、非常に古い歴史を持っているということです。
そこにありました。
ガガーン!

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447_左京区田中里ノ内町


何がショックかって、その目と鼻の先を毎朝毎夜のように通っているのです。
何ならその通りを通ったことだってあったような気がします。
なのに気が付かなかった!
気が付かないまま8か月もの間、奈良やら滋賀まで足をのばしていたなんて!ギャー!

と別に叫ぶことではないのですが、これにより東大路通にまで接近してまいりました。
総合的に見て何が一番都心に近いかはおいておくとして、従来、愛宕空白地帯の最東端は北白川の058_だったのです。
それが、これで一気に縮まりました。

現代的には北白川の近くという印象なのですが、昔の北白川というのはそりゃもう段違いの僻地、山中越えの入り口で、文化的・精神的な隔たりは相当なものだったんではないかと想像されます。

世界はまことに一筋縄ではいきません。

なんて思っていたら、もっと近くにありました。
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450_左京区高野清水町

川端通りから遠目に見えます。
遠目に見ながら、コインパークの精算機かな、なんて思ってました。
なんてこったい、イチから出直しだ。


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# by fdvegi | 2018-04-09 00:30 | 京都在住 | Comments(0)