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長岡京市の愛宕灯籠

いよいよ長岡京市へやってまいりました。

この地に長岡京という都が置かれたのは784年で、はるばる奈良から持ってきたのは桓武天皇という剛腕天皇でした。即位からわずか3年後のことです。
しかし、たった10年後の794年に都は再び移されて有名な平安京が開かれました。この遷都をしたのもまた桓武天皇で、長岡京では色々うまくいかなくなってのことでした。
ここまで、物集女の時にあれこれ知りました。

で、ここから。
うまくいかなくなった端緒となったのが、長岡京の建設責任者が暗殺されたことでした。
奈良から京都・長岡へ都が移って損をしたり腹が立ったりするのは旧都・奈良の人々です。今でいうところの既得権者ですね。桓武天皇はそもそも既得権者を嫌って、当時まだまだド田舎の山背(山の裏側)、今でいうところの京都へ遷都したわけです。
ということで、長岡京の建設責任者を殺めたのは奈良の関係者だろうということになりました。

で、嫌疑がかけられたのが桓武天皇の実の弟の早良親王という人です。この人は、桓武天皇が天皇になる20年も前に出家して、奈良東大寺にいました。出自がいいので、いい寺に行くのでしょう。当時の奈良のいい寺ということは、すなわち既得権益の中枢ということでしょう。

王様がいる。王様と仲良くない旧勢力がいる。王様に弟がいる。弟は第一線からは離れている。しかし、旧勢力が弟を担いであれやこれや暗躍する。
という、もう絵に描いたような権力闘争物語が展開されたということのようです。

大阪南部系の土師氏(土木技術集団)で固めた長岡京から、平安京に移るにあたって奈良系の土師氏を招へいしたあたり、桓武天皇の巧みな懐柔策だったのかもしれないし、あるいは、奈良の実務家をもって奈良の寺社勢力を抑えるという、これもまた巧みな操作術だったのかもしれません。

あるいは、暗殺された長岡京の建設責任者は、太秦に出てきた「秦」の一族の人だったそうで、長岡京の建設にあたっても秦氏の力を得ていたもようです。
なので、奈良系の土師氏の招へいは、長岡京建設でさらに力を得てしまった秦一族への牽制という意味もあったのかもしれません。平安時代には、長岡はかの有名な菅原道真(奈良系の土師氏)の所領になっていたようです。
華麗なまでの権力ゲームですね。大河にならないかな。古すぎて人気出ないか。

さて、その弟、早良親王が最晩年に幽閉されたのが、長岡京遷都の前から長岡にあり、平安京遷都後も、今も長岡にある乙訓寺という寺です。入場料が要るので行ったことはありません。
そして、早良親王という人は、日本史上唯一、亡くなってから天皇の称号を得ました。崇道天皇です。
というのも、早良親王が亡くなってから不吉なことが起こりまくったので、桓武天皇は慌てて天皇の名前を与えたり、上御霊神社を作ったり、さらには崇道神社を作ったりと、それはもう手厚く手厚くケアをしたのです。

早良親王からの平安、ひいては長岡京からの平安、この祈りによって丁寧に開かれたのが平安時代です。長岡なくして今の京都はなかったのですね。

愛宕灯籠とは、おそらく何の関係もない話です。すいません。

江戸時代の頃の長岡は、大都市・京都への近郊農業でわりと裕福だったそうです。今も「○○家住宅」という、農家の古い家が結構たくさん残っていて保存されています。それが裕福だったのか、昔の農家なら必要不可欠で当たり前サイズなのかはわからないのですが、立派であることは間違いありません。

愛宕灯籠はというと、だいたい3つの流れで発見されていて、西国街道ライン、長岡天満宮ライン、柳谷観音ラインです。

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※網かけ部分は既出です(向日市)


西国街道ラインは、そのまま向日市に入っていきます。
長岡天満宮は大きな池をたたえた素敵な神社で、明らかに長岡京市の精神的な中心です。今も長岡の富裕な住宅街は長岡天満宮の裏手の丘にあります。
考えてみれば、これも奈良系の土師氏の出世頭で、後に早良親王と同様に嫌疑をかけられて呪いの神になった菅原道真を祀っているわけですから、この地に巡る呪いの系譜ですね。おそろしや。

そして最後が柳谷観音(楊谷寺)で、これがまた不思議なお寺といいますか、大阪からも京都からも結構な距離があるというのに驚くほどやたらめったら講(参拝のためのグループ旅行団)が形成されて寄進がなされており、今は閉じているけど過去には門前に宿泊施設まであったようなのです。

今も無数に掲げられている各講による「参拝記念板」や、整然にも雑然にも並ぶ奉納石灯籠を見ると、「愛宕さんには月参り」ほど熱心かは不明ながら、一方で、愛宕神社では考えにくいほどの大阪の参拝者も集めていたのだと思われます。

愛宕灯籠は、そんな柳谷観音へ向かう山道の入り口あたり、集落の出口部分になぜかかなり集中的に発見されています。ひょっとすると、柳谷観音はここでも、高槻でそうだったようなバーチャル愛宕の機能をはたしていたのかもしれません。

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012_長岡京市友岡

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067_長岡京市神足

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066_長岡京市神足

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081_長岡京市馬場

以上、おそらく西国街道ライン。

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240_長岡京市開田

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239_長岡京市開田

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011_長岡京市天神

以上が長岡天満宮ライン。

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013_長岡京市下海印寺

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065_長岡京市奥海印寺

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218_長岡京市奥海印寺

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217_長岡京市奥海印寺

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216_長岡京市奥海印寺

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215_長岡京市奥海印寺

以上が柳谷観音ライン。
そして、下のは分類不能で、富裕農村の灯籠ではないかと邪推。デザインが素敵で、この灯籠から望む景色も素敵なのです。
もしくは、これもと天満宮ラインなのだろうか。よく見ると、同じ道の上にありますね。

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219_長岡京市長法寺

最後に浄土谷。
浄土谷ということは柳谷観音ラインといえばそうなのかもしれませんが、やっぱりこれは浄土谷の愛宕灯籠と呼びたい。
捜索初期の頃の一番のお気に入りです。
こんなところにたった一つで、それでもちゃんと建っていたのだな、と妙に胸が熱くなりました。

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036_長岡京市浄土谷


あれからずいぶんとたくさんの灯籠を探し出したものです、我ながら。
なんか、若干の郷愁にすら駆られています。切ない。



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by fdvegi | 2017-10-16 00:30 | 京都在住 | Comments(0)