タグ:滋賀県 ( 6 ) タグの人気記事

大津市堅田の愛宕灯籠

滋賀県大津市の堅田というところです。カタタと読みます。
琵琶湖沿岸の町で、こちら側から向こう岸までの距離が琵琶湖の中で一番せまい場所だそう。
なるほど、今は琵琶湖大橋がかかっていますね。通行料は150円です。

c0072352_23505934.png

そういうわけで、かなりの大昔から水運や漁業の要衝地となっていたようで、ウィキペディアで見るだけでも11世紀後半には何とかという記載があります。
11世紀というと1000年代ですから、イイクニ作ろう鎌倉幕府の前、平安時代の話です。
平安時代の下鴨神社にフナを納め、代わりに税金を免れていたとのこと。

当時は下鴨神社にあんなところでの徴税権があったことも驚きですが、今の下鴨神社には大炊殿(オオイドノ)という古い調理場があって、神様の台所と銘打って重要文化財になっています。
おそらくその関係で、下鴨神社周りでは、他の地域よりも神饌(神様に収める食事)の種類やその扱いがクローズアップされやすい実感がありまして、その一角を堅田が担っていたというのは、ちょっと感慨深いです。
今も、御蔭祭りの前日に、おそらく神事として「献撰供御人行列(けんせんくごにんぎょうれつ)」なるものが執り行われています。
つまり堅田から下鴨へ魚を運んでいるのです。
やっぱり、それが翌日の御蔭祭りに使われてるんですかね。

昔の京都で魚といえば御食国(みけつくに)若狭の鯖にばかり気を奪われていましたが、京都から最も近い港は、実は滋賀なのですね。
運び方の仰々しさを考えると、神饌の魚はやっぱりフナなのかもしれません。

そんな大昔の話は愛宕灯籠とは何の関係もないような気もするし、いや待て、下鴨神社の辺りも昔は愛宕郡(おたぎぐん)だったな、などとも思ったり。

この辺りでは、正確には愛宕「灯籠」というより、お札箱がより専門的に(?)簡易祠もしくは石祠化し、その祠に灯籠が併設されて、一体として愛宕小社になっている感じです。
同じく滋賀の木戸でもお札箱が神殿化してミニ愛宕を形成していましたが、向こうの方がまだお札箱としての原型をとどめている感じがしました。
それと特徴的なのは、秋葉山灯籠との並存です。
愛宕灯籠とほとんど同じ数くらい秋葉山を祀る灯籠や祠がありました。
281_なんてまんまその象徴的な存在で、堅田全体が愛宕と秋葉の吃水域という様相を呈しています。
それと地蔵尊、特に延命地蔵がやたらと多かった。

c0072352_23075580.jpg
278_大津市本堅田

c0072352_23075547.jpg
279_大津市本堅田

c0072352_23075548.jpg
280_大津市今堅田

c0072352_23075558.jpg
281_大津市今堅田

c0072352_23075653.jpg
282_大津市今堅田

c0072352_23075668.jpg
283_大津市今堅田

c0072352_23075765.jpg
284_大津市本堅田

c0072352_23075809.jpg
285_大津市本堅田

c0072352_23075897.jpg
286_大津市本堅田

c0072352_23084615.jpg
287_大津市本堅田

c0072352_23084650.jpg
288_大津市本堅田


平安時代以降も、鎌倉時代や室町時代、戦国時代にかけても延々、様々な紆余曲折があったようです。
有力諸団体に囲まれた有力な街の宿命なのでしょう。
1468年には、比叡山延暦寺から焼き討ちにされ、町のほぼ全域が焼失したとのこと。
今もこうして蝟集する愛宕灯籠郡、それに秋葉灯籠群はその記憶の名残なのかもしれません。

全体として古きよき趣きが残る静かな町並みです。
ちょうど今がぎりぎりという感じ。移行中であって、完成はしていません。この姿であり続けることもありません。
何年か後には、所々に古さも残っている程度の住宅街になっている気がする。
浪乃音酒造の純米酒ええとこどりはおいしいです。





[PR]
by fdvegi | 2017-11-10 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

大津市葛川の愛宕灯籠

葛川と書いて「かつらがわ」と読みます。

川のことかと思ったら地名で、比良山系の裏側(琵琶湖と反対側)にある山間地です。谷に安曇川(あどがわ)が流れ、山と谷との間のわずかな平地に小さな集落があるという、大げさに言えば深山幽谷の世界。
京都市の北東の果てであり、日本海へと抜ける細道いわゆる鯖街道上の朽木の手前。失礼ながら、産業といえば林業くらいしかおよそ思いつきません。

c0072352_23371472.png
※網かけ部分は既出です(湖西)


ここで愛宕灯籠が見つかったことは心底驚きでした。
林業なのだから火伏の愛宕信仰があってもおかしくはない一方で、「松上げ」という山で行われる祭礼がありまして、これをぼくは愛宕信仰に直結する神事と思っていて、年に一回、山中で壮大な火を燃え上がらせるのです。見てみたい。

年に一度の大きな火をもって日常的な小さな灯に代えるというより、むしろ、大きな火を上げることこそが最初で、それができない場所で日々の灯籠を用いることとなったのではないか、と邪推していたのです。原初の愛宕信仰とは、そういうものではなかったかと。よって、基本的に松上げと愛宕灯籠は共存しないと。

しかも、松上げが行われるのが久多・花脊・広河原と、京都市ではあるけど葛川に通じる場所なので、それよりさらに奥、愛宕山からいっそう遠いところに灯籠はないと思い込んでいたのです。

が、ありました。少なくとも2基。まさに二度ガツンとやられました。

c0072352_21352842.jpg
234_大津市葛川坊村町



c0072352_21352971.jpg



c0072352_21352870.jpg


235_大津市葛川細川町


234_は、明王院(みょうおういん、859年)という、修験道の道場へのアプローチ部分にあります。
愛宕神社も、まずは役小角(えんのおづぬ)という修験道開祖の化け物みたいな人によって白雲寺として開かれました(781年)。
なるほど、あの地とこの地の間には修験道という強烈なつながりがあったのです。修験の人々が山と山とを駆け回っていたのです。想像するだにスリリング。
しかし、こうなると、日本中の修験道の道場に愛宕灯籠あっても不思議じゃなくなってきますね。

235_は、明王院のさらに奥(朽木寄り)です。
ここに愛宕灯籠があるこれといった理由は思い浮かびません。
ただ、この安曇川に沿った地域では「シコブチ神」という土着の神様が信じられていて、いわば水運・水上安全の神様です。

昔は材木を束ねて筏にし、その筏に人が乗ってコントロールしながら川下へ、琵琶湖へと運びました。山間の川が全域に渡って穏やかなわけもなく、点々と特に事故が多い場所があります。そうした難所ポイントでは河童のガアタロウが悪さをしているとされ、それを諫めるシコブチ神が祀られるシコブチ神社が置かれました。

水上安全のシコブチ神が結果的に林業を保護してくれる神様であれば、同じく火伏の神様である愛宕も林業を守ってくれるという点で共通しています。なので、シコブチ神社がある場所に愛宕神社や愛宕灯籠が付け足されていることが考えられるのです。

そして、写真には写っていませんが、この灯籠の奥の方には「細川カッパ村」なるものが(恐らくごく最近だろうけど)設けられていました。つまり、何かしら河童と特別に縁の深い場所だということが推測されるのです。

が、愛宕灯籠の置かれたこの場所付近にシコブチ神社が置かれていることは確認されていません。近くに八幡神社があり、その境内にシコブチ神も祀られているという説もありますが、はっきりはしていません。残念。

もう一つ気にとまるのは、近くに細川城という山城があったという情報です。
愛宕神は火伏の神であると同時にというか、それ以前に勝軍地蔵というのが始まりだったようで、例えば明智光秀が本能寺の変を決行する前に愛宕神社に参ったという話もあるのです。細川城をだれが作ったのは知りませんが、武運を祈って愛宕灯籠が建てられたということも、ないことはない、のかもしれません。

んー。いずれにしても謎は謎。

この235_、一連の愛宕捜索の中で一番の大穴、大発見という認識でおりまして、ついつい興奮してしまいます。




[PR]
by fdvegi | 2017-10-20 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

大津市南船路の愛宕灯籠と湖西のまとめ

南船路という場所があること自体が不思議じゃないでしょうか。
北側に隣接するのは北船路で、南北に「船の道」がある、と。
大きな湖があるし、実際、漁港もあるので船がたくさんあるのはわかるとしても、それにしたって「船路」なんて名前にするほどでしょううか。
同じことばっかり言ってますが、不思議です。

見取り図は、湖西一帯のものにしました。
上から、荒川3、木戸6、南船路1、和邇5+1です。
こうしてみると、なるほど西近江路に沿って点在しているのがわかりますが、和邇だけが群を抜いて水辺で、それ以外は水から離れているというか、気分的に山に沿っているという気がします。
意外と、全然違う文化圏なのかもしれません。

c0072352_17505641.png

南船路で見つかったのは一つだけです。
いくつかあると、そのうち一つ二つで「愛宕」を確認できなくても類推認定できますが、一つだけだとそうもいきません。
特に、この近辺には「秋葉灯籠」もちらほらと立っているので注意が必要です。
幸いにも、うっすらと「愛」が確認できます。

c0072352_17513078.jpg



c0072352_17524404.jpg


232_大津市南船路


目次へ




[PR]
by fdvegi | 2017-09-16 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

大津市荒川の愛宕灯籠

滋賀県大津市の木戸から、西近江路に沿ってさらに北上するとあるのが荒川というところです。
ただし、木戸市民センターや木戸小学校が、この荒川の領内と思しき一帯にあります。
ということは、荒川自体が木戸の一部なのでしょうか。ものすごくよくわかりません。
ネット検索だけしている分には全然情報も拾えないし、とりあえず謎を謎として受け入れておこうと思います。

c0072352_17352787.png

ちなみに、愛宕灯籠のあり方は木戸のそれとは異なっています。
信仰のあり方が違うというのは、精神面が全然違っているということでしょうから、やはり根本的には違う地域というのが正しいような気がします。
町村合併とか行政的な都合で、こういう蚕食気味の配置になっているんじゃないかな。
それはそれで不思議というか、どうしてわざわざ? という気がしますが、行政的には行政的な都合も色々あるんでしょうね。
昔のことを知っている人がいる内に何かの形で残してほしいものです。

c0072352_17234839.jpg
231_大津市荒川

c0072352_17234842.jpg
230_大津市荒川

c0072352_17234876.jpg
229_大津市荒川


次は、西近江路を少し南に戻ります。




[PR]
by fdvegi | 2017-09-15 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

大津市木戸の愛宕灯籠

またまた滋賀県湖西地方です。大津市木戸。
和邇よりも少し北にあって、西近江路という旧街道でここもつながっています。
相撲の行司の始祖だという志賀清林の出身地でもあり、清林パークという、密かに趣向の凝らされた大きな公園もあります。

お話し好きなおじさんに色々教えてもらったところ、昔は辺り一帯全部が茅葺屋根の家だったそうで、毎日、隣近所の葺き替え作業の手伝いだったそう。そして町内に一つ愛宕さんがある、と。こういう時の「町内」をどういう風に解釈すればいいのかは戸惑うところですが、町村合併なんかで木戸一町になったけど、それ以前は複数の小さな町たちでエリアとしての木戸を形成していたのでしょうね。

c0072352_01554895.png

なるほど、さほど大きくもない木戸エリアで灯籠は6基もあり、数は限られてはいますが今でも立派な茅葺屋根もあり、比良山系に沿うような集落ですので見事な石垣も残っています。集落の精神的支柱をなしていると思われる樹下神社はいかんともしがたい懐深さを感じさせ、一エリアの鎮守でありながら、湖西全体のランドマークでありソウル・アイコンである白髭神社にも引けを取らない静かな押しの強さを感じさせます。全体的に素敵郷愁エリア間違いなし。

ウィキペディアによると、上述の志賀清林さんは奈良時代に近江国から朝廷に出仕し、相撲の技四十八手と礼法と「突く・殴る・蹴る」の三手の禁じ手を制定する事を聖武天皇に奏上したといいますから、そんな人物を輩出する木戸という土地もまた、元々ただの湖畔の田舎というわけではなかったのでしょう。
謎深き湖西です。

c0072352_01572957.jpg
224_大津市木戸

c0072352_01572754.jpg
225_大津市木戸

c0072352_01572874.jpg
223_大津市木戸

c0072352_01572860.jpg
226_大津市木戸

c0072352_01572887.jpg
227_大津市木戸

c0072352_01572856.jpg
228_大津市木戸


お札箱併設の灯籠は各地に多いですが、ここでは、お札箱が祠というか神殿扱いされ、その神殿の奉灯として愛宕灯籠がセットされているという、かなり独自色の強いミニ愛宕が形成されていました。

西近江路でつながっているとはいえ、和邇での愛宕灯籠とのあり方とは根本的に違っています。この違いは一体何なんだろう。
そして、比叡山すら越えて右京区の愛宕山へ行っていた、その動力の源泉は何だったのだろう。
箱は南面しているものが2つありましたが、灯籠は6基すべて西を向いています。


目次へ



[PR]
by fdvegi | 2017-09-11 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

大津市和邇北浜の愛宕灯籠

このまま京都の西寄りへシフトしていくのも芸がないので、変わり種(?)を。

滋賀県大津市の湖西地方、住みたい街ナンバーワンの和邇です。ワニと読みます。
琵琶湖にもクロコダイルのワニがいたのか、いや、因幡の白兎に出てくるワニとの関係があるのでは、ということは、奈良のワニ氏の分家さんか、などと古代史愛好家にはたまらない情報発信地となっています。たぶん。

c0072352_09082968.png

ちなみに、和邇の南側は小野です。我々にとっては小野宮惟喬親王でもはやなじみ深い、あの小野です。
老いさらばえた小野小町の木像が市原にある言いましたが、あの小野家の超有名な太祖、奈良平城京の超高級官僚であった小野妹子が活躍した土地ともいわれています。
妹子の息子、小野毛人(えみし)の墓は京都市内の上高野にあるんです、これがまた。
閑話休題。


c0072352_08541451.jpg
113_滋賀県大津市和邇北浜

c0072352_08541516.jpg
109_滋賀県大津市和邇北浜

c0072352_08541460.jpg
112_滋賀県大津市和邇北浜

c0072352_08541426.jpg
111_滋賀県大津市和邇北浜

c0072352_08541308.jpg
110_滋賀県大津市和邇北浜

c0072352_08541490.jpg
108_滋賀県大津市和邇中浜


琵琶湖岸の地域とはいえ愛宕灯籠があるとすれば山寄りかなと思っていたら、意外や意外、がっつり水際でした。
113_はおそらく愛宕灯籠業界でもっとも水辺の存在でしょう。背景の水色はすでに琵琶湖です。
この辺りは今でも漁港がある、いわば港町・漁師町でもあり、水上安全の信仰と山の火伏信仰が、どういう経緯をたどったか、融合していったのかもしれません。ロマン以外の何物でもありません。





[PR]
by fdvegi | 2017-09-03 00:30 | 京都在住 | Comments(0)