<   2017年 11月 ( 8 )   > この月の画像一覧

嵯峨の愛宕灯籠も追加

既にたくさんある嵯峨ですが、まだありました。堂々たる一基を見落としてました。
森嘉という有名な豆腐屋さんの隣です。

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朝一で写真を撮りに行き、ついでに豆腐を買って帰って朝ごはんにしようとしたら、意外とまだ開いてませんでした。嵯峨野の朝は静かです。
ぼくは厚揚げが好きです。


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314_右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町

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315_右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町


315_は愛宕の文字が見当たりませんが、愛宕神社の御旅所のすぐ隣なので一応。




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by fdvegi | 2017-11-30 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

太秦の愛宕灯籠、追加

ここが本当に太秦なのか、実はかなり微妙なのですが。

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福王子という、いかにも福々しい名前の神社に一基見つかりました。
朗らかなお名前に反して、ここの交差点が渋滞で有名というか、信号により絶対に自然渋滞する宿命の五叉路なのですが、その信号を待っていたら目の前にありました。

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305_右京区鳴滝本町

それと、嵯峨とは分離して別建てにしました。
嵯峨と太秦の土地としての連続性(の予兆・雰囲気)は無視できないのですが、かといってしっかりと見出すこともできず、ちょっとやきもきします。
誰か教えてください。




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by fdvegi | 2017-11-29 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

西京極の愛宕灯籠、追加しました

西京極といえば旧山陰街道、という前提で紹介しておりましたが、その山陰街道と七条通りがぶつかる地点に残っていました。一基。
ちゃんと探せよと、自分で自分に毒づきたくなります。

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308_右京区西京極西川町


それにしても、この周辺は道がとにかくニュアンス含みといいますか、十字に造成された道路の間を、細道が常に斜めに、かつ途中でガクッと曲がったりしながら走っています。
逆に言うと、網目状の交通網を作るために、元あった道たちを無視・蹂躙しまくったということなのでしょう。
その一筋一筋を丁寧にたどってみたいです。




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by fdvegi | 2017-11-28 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

一乗寺の愛宕灯籠、追加

灯台下暗し。
一乗寺で見つかりました。
しかも、一番最初の頃に見つけた003_から5歩くらいの場所です。
移設でしょうけど、そんなに近いのって、まぁないです。
しかも、薬師堂という施設の敷地内。
北白川の薬師堂にはなかったので油断しておりました。
お恥ずかしい。

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しかしそれにしても、この発見によって100_、321_、003_、が一直線につながりました。
その延長上にある101_は、やっぱり愛宕灯籠の名残・遺構なのではないでしょうか。

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321_左京区一乗寺堀之内町



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by fdvegi | 2017-11-20 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

桂周辺の愛宕灯籠、追加

にまだありました。
見落としというか、そんなところにあるのか、という感じ。
人んちの軒先です。
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こういうのって、個人の所有物になるのでしょうか。
だとしたら撮影にも掲載にも許可がいるんでしょうけど、誰から買ったんだろう。
おおもとの土地の所有者ですかね。
そのあたりちゃんと調べないと後々まずい事になるのだろうか。。


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309_西京区川島滑樋町




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by fdvegi | 2017-11-19 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

宇治田原町の愛宕灯籠

広報うじたわら」に掲載の2基を見に行ってきました。
行って初めて知ったんですが、宇治田原町の宇治茶押しはすごいですね。
というか、お茶以外のことが書かれた看板がなかった。

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モダンなお茶屋さんで抹茶ソフトを食べたとき、小さな湯飲みに緑茶をサーブしてくれました。
その色のきれいなこと、そして味のおいしいこと。
妻のノンカフェイン趣味により、日ごろ茶色いお茶一本やりの娘が、おいしそうにすすっておりました。


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302_綴喜郡宇治田原町岩山

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303_綴喜郡宇治田原町郷之口


ほの温かい緑茶をすする娘は普段以上の丸こく見えて、かわいかったです。




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by fdvegi | 2017-11-16 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

大津市堅田の愛宕灯籠

滋賀県大津市の堅田というところです。カタタと読みます。
琵琶湖沿岸の町で、こちら側から向こう岸までの距離が琵琶湖の中で一番せまい場所だそう。
なるほど、今は琵琶湖大橋がかかっていますね。通行料は150円です。

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そういうわけで、かなりの大昔から水運や漁業の要衝地となっていたようで、ウィキペディアで見るだけでも11世紀後半には何とかという記載があります。
11世紀というと1000年代ですから、イイクニ作ろう鎌倉幕府の前、平安時代の話です。
平安時代の下鴨神社にフナを納め、代わりに税金を免れていたとのこと。

当時は下鴨神社にあんなところでの徴税権があったことも驚きですが、今の下鴨神社には大炊殿(オオイドノ)という古い調理場があって、神様の台所と銘打って重要文化財になっています。
おそらくその関係で、下鴨神社周りでは、他の地域よりも神饌(神様に収める食事)の種類やその扱いがクローズアップされやすい実感がありまして、その一角を堅田が担っていたというのは、ちょっと感慨深いです。
今も、御蔭祭りの前日に、おそらく神事として「献撰供御人行列(けんせんくごにんぎょうれつ)」なるものが執り行われています。
つまり堅田から下鴨へ魚を運んでいるのです。
やっぱり、それが翌日の御蔭祭りに使われてるんですかね。

昔の京都で魚といえば御食国(みけつくに)若狭の鯖にばかり気を奪われていましたが、京都から最も近い港は、実は滋賀なのですね。
運び方の仰々しさを考えると、神饌の魚はやっぱりフナなのかもしれません。

そんな大昔の話は愛宕灯籠とは何の関係もないような気もするし、いや待て、下鴨神社の辺りも昔は愛宕郡(おたぎぐん)だったな、などとも思ったり。

この辺りでは、正確には愛宕「灯籠」というより、お札箱がより専門的に(?)簡易祠もしくは石祠化し、その祠に灯籠が併設されて、一体として愛宕小社になっている感じです。
同じく滋賀の木戸でもお札箱が神殿化してミニ愛宕を形成していましたが、向こうの方がまだお札箱としての原型をとどめている感じがしました。
それと特徴的なのは、秋葉山灯籠との並存です。
愛宕灯籠とほとんど同じ数くらい秋葉山を祀る灯籠や祠がありました。
281_なんてまんまその象徴的な存在で、堅田全体が愛宕と秋葉の吃水域という様相を呈しています。
それと地蔵尊、特に延命地蔵がやたらと多かった。

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278_大津市本堅田

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279_大津市本堅田

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280_大津市今堅田

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281_大津市今堅田

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282_大津市今堅田

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283_大津市今堅田

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284_大津市本堅田

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285_大津市本堅田

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286_大津市本堅田

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287_大津市本堅田

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288_大津市本堅田


平安時代以降も、鎌倉時代や室町時代、戦国時代にかけても延々、様々な紆余曲折があったようです。
有力諸団体に囲まれた有力な街の宿命なのでしょう。
1468年には、比叡山延暦寺から焼き討ちにされ、町のほぼ全域が焼失したとのこと。
今もこうして蝟集する愛宕灯籠郡、それに秋葉灯籠群はその記憶の名残なのかもしれません。

全体として古きよき趣きが残る静かな町並みです。
ちょうど今がぎりぎりという感じ。移行中であって、完成はしていません。この姿であり続けることもありません。
何年か後には、所々に古さも残っている程度の住宅街になっている気がする。
浪乃音酒造の純米酒ええとこどりはおいしいです。





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by fdvegi | 2017-11-10 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

岩倉の愛宕灯籠、大量追加

岩倉には東側にしか愛宕灯籠がない、と言っておりましたが大いなる誤りでした。
西側にもありました。
そして、西側とはつまり岩倉実相院の周りを念頭に置いていましたが、岩倉実相院よりも南側にたくさんありました。小一時間歩いて約10基。釣果でいえば入れ食いです。
総数でいうと、あの広大な大原、左京区のラスボスをさえ上回っています。
これは奇怪。
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それで初めて岩倉について少し調べました。ネットサーフィンだけど。
そしたらとても興味深いことがわかりました。
近くに住んでいるのに全然知らなかった。
京都・岩倉を歩く─精神病患者と共存した町(前編)(後編) というサイト :

江戸時代の18世紀末にはもう、多くの精神病患者が岩倉を訪れるようになっていて、そういう患者のための茶屋などができていたという。明治時代になると、精神病患者を預かる保養所ができ、さらに村の多くの民家でも精神病患者を預かるようになっていく。
(略)
岩倉に預けられた精神病患者は、高貴な家や大会社の創業者一族などの子どもも多く、なかには精神病だけではなく、さまざまな事情で生家では育てられない人も含まれていた。
(略)
たいした産業もなかった岩倉の村は、精神病患者や里子を預かり、その生家からお礼を受け取ることで生計が成り立っていた。

18世紀末が仮に1790年だとしても、そこからなお80年ほど江戸時代が続く(~1867年)、そういうタイミングです。80年というと64年続いた昭和よりも長いわけですから、すごい期間ですね。
そして、明治になると民家でも患者さんや、訳アリの里子を預かっていたという。
預け元の家庭からお礼を受け取っていて、預け元の中には富裕な一族もいた、と。

ここから先は完全に勝手な推測なのですが、愛宕灯籠が林立する2つの要素があったのではないかと思うのです。
・精神病患者が多い岩倉では、一般的な集落や村よりも、夜間の明かりに対する要請が高かった。
これは患者さんのためでもあり、住民のためでもあったでしょう。
・訳アリな預け元の中には、預け先の生計を維持した上でなお余裕が出るくらい多くの謝礼を支払っていたところもあった。
結果的にこれが愛宕灯籠という形になったのではないか。

今回、追加で多くの灯籠が発見された一帯は、引用した中にある保養所の後身である岩倉病院の南東側で、病院からみると少し坂を下りた人里ということになります。
その辺りで特に常夜灯へのニーズが高かったというのは、わりと腑に落ちる仮説ではないかな、という気がしています。

そして、岩倉という地名って恐らく「磐座」が元で、大きな岩自体が神格化されたり、神様の降りてくる場所とされています。
山住神社というところがそれで、なるほど大きな岩がありました。
磐座自体は日本中のいたるところに結構たくさんあるのですが、それぞれの岩のあり様は千差万別です。

山住神社の岩は何ていうかな、当日の気候や日の傾き加減もあると思のですが、「独立不遜・孤高の大岩」という感じではないのですよね。
覆いかぶさって包んでくるような、微妙なほの暗さをたたえておりました。
引用したサイトでは、岩倉の地から見える比叡山の稜線の優しさにポイントを置いていましたが、ぼくとしてはむしろ、この磐座のあり様こそが岩倉マインドの骨格をなしているんではないかと思っています。

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291_左京区岩倉西河原町

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292_左京区岩倉下在地町

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293_左京区岩倉西河原町

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294_左京区岩倉上蔵町

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295_左京区岩倉西河原町

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296_左京区岩倉中在地町

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297_左京区岩倉忠在地町

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298_左京区岩倉忠在地町

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299_左京区岩倉忠在地町

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300_左京区岩倉西河原町

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301_左京区岩倉下在地町


それにしても、「洛北岩倉と精神医療」を読んでみたいと思いました。
それと、やっぱりちゃんと灯籠の設置時期の確認をしないといけないな、と。

あと、東側の愛宕灯籠たちとこの西側の灯籠たちって、関係あるのかな。
現状の地図に照らすと、なんだか岩倉中通りを挟んで別々の文化圏になるような感じがします。
叡山電鉄の線路を挟む南北では絶対違うような気がするし、小さなエリアでありながら岩倉、なかなかに興味深い土地だなと、再発見させていただきました。




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by fdvegi | 2017-11-09 00:30 | 京都在住 | Comments(0)