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愛宕灯籠との暮らし

日没時間が随分と早まったと思う。
仕事帰りに自転車を飛ばして二ノ瀬や山科まで行っていたのが遠い昔のように思える。
その上、2週続けてきっかり週末に台風がやってきて、普段の一週間分の買い物が、なんとなく非常買い出し的な妙な興奮に包まれたのは面白かった。
なんやかんやで、7月から怒涛の勢いで続けていた愛宕灯籠探しは一休み。
季節の巡りと天候任せなところが、なかなからしくていい。
灯籠探しなんていうのは、このくらいがいいのだと思う。

それに、葛川まで言及して、ちょうど手持ちの多くを出し切ったところでもある。
ちらほら残っているものがあったり、新しくまとまった数を稼いだりもしているが、もう少し洗えるだけ洗ってしまってから、まとめて披露したいと思っている。
愛宕灯籠マッピングとしては、それが本道だろう。

一方で、愛宕灯籠の出し入れのない日々の連続に、心と体がうまくついていかない。
どうもそういうことなんだと思われる。一種の禁断症状。
わなわなとして、250枚くらい写真を一気に現像し、一枚一枚丁寧にアルバムに収めた。
さらにいてもたってもいられなくなって、インスタグラムを始めた。
一日に一枚ずつ出し惜しみつつ公開していくが、驚くくらいに「いいね!」が付かない。
あまりのいいね!の付かなさに、なるほど、妻の冷め返った対応は決して特別ではなかったのだなと、改めてその優れた普遍性に感服させられた。

まぁいい。
大切なのは灯籠のある暮らしなのだ。
いや、妻子との暮らしに灯籠があることだ。
乱数メーカーを導入したこともいい。
発見した順やエリアごとという、自分の中の落ち着いた整理を無視して示されるランダムな数字に従って、灯籠を追いかけ直している。
この妙味。


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by fdvegi | 2017-10-30 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

大津市葛川の愛宕灯籠

葛川と書いて「かつらがわ」と読みます。

川のことかと思ったら地名で、比良山系の裏側(琵琶湖と反対側)にある山間地です。谷に安曇川(あどがわ)が流れ、山と谷との間のわずかな平地に小さな集落があるという、大げさに言えば深山幽谷の世界。
京都市の北東の果てであり、日本海へと抜ける細道いわゆる鯖街道上の朽木の手前。失礼ながら、産業といえば林業くらいしかおよそ思いつきません。

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※網かけ部分は既出です(湖西)


ここで愛宕灯籠が見つかったことは心底驚きでした。
林業なのだから火伏の愛宕信仰があってもおかしくはない一方で、「松上げ」という山で行われる祭礼がありまして、これをぼくは愛宕信仰に直結する神事と思っていて、年に一回、山中で壮大な火を燃え上がらせるのです。見てみたい。

年に一度の大きな火をもって日常的な小さな灯に代えるというより、むしろ、大きな火を上げることこそが最初で、それができない場所で日々の灯籠を用いることとなったのではないか、と邪推していたのです。原初の愛宕信仰とは、そういうものではなかったかと。よって、基本的に松上げと愛宕灯籠は共存しないと。

しかも、松上げが行われるのが久多・花脊・広河原と、京都市ではあるけど葛川に通じる場所なので、それよりさらに奥、愛宕山からいっそう遠いところに灯籠はないと思い込んでいたのです。

が、ありました。少なくとも2基。まさに二度ガツンとやられました。

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234_大津市葛川坊村町



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235_大津市葛川細川町


234_は、明王院(みょうおういん、859年)という、修験道の道場へのアプローチ部分にあります。
愛宕神社も、まずは役小角(えんのおづぬ)という修験道開祖の化け物みたいな人によって白雲寺として開かれました(781年)。
なるほど、あの地とこの地の間には修験道という強烈なつながりがあったのです。修験の人々が山と山とを駆け回っていたのです。想像するだにスリリング。
しかし、こうなると、日本中の修験道の道場に愛宕灯籠あっても不思議じゃなくなってきますね。

235_は、明王院のさらに奥(朽木寄り)です。
ここに愛宕灯籠があるこれといった理由は思い浮かびません。
ただ、この安曇川に沿った地域では「シコブチ神」という土着の神様が信じられていて、いわば水運・水上安全の神様です。

昔は材木を束ねて筏にし、その筏に人が乗ってコントロールしながら川下へ、琵琶湖へと運びました。山間の川が全域に渡って穏やかなわけもなく、点々と特に事故が多い場所があります。そうした難所ポイントでは河童のガアタロウが悪さをしているとされ、それを諫めるシコブチ神が祀られるシコブチ神社が置かれました。

水上安全のシコブチ神が結果的に林業を保護してくれる神様であれば、同じく火伏の神様である愛宕も林業を守ってくれるという点で共通しています。なので、シコブチ神社がある場所に愛宕神社や愛宕灯籠が付け足されていることが考えられるのです。

そして、写真には写っていませんが、この灯籠の奥の方には「細川カッパ村」なるものが(恐らくごく最近だろうけど)設けられていました。つまり、何かしら河童と特別に縁の深い場所だということが推測されるのです。

が、愛宕灯籠の置かれたこの場所付近にシコブチ神社が置かれていることは確認されていません。近くに八幡神社があり、その境内にシコブチ神も祀られているという説もありますが、はっきりはしていません。残念。

もう一つ気にとまるのは、近くに細川城という山城があったという情報です。
愛宕神は火伏の神であると同時にというか、それ以前に勝軍地蔵というのが始まりだったようで、例えば明智光秀が本能寺の変を決行する前に愛宕神社に参ったという話もあるのです。細川城をだれが作ったのは知りませんが、武運を祈って愛宕灯籠が建てられたということも、ないことはない、のかもしれません。

んー。いずれにしても謎は謎。

この235_、一連の愛宕捜索の中で一番の大穴、大発見という認識でおりまして、ついつい興奮してしまいます。




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by fdvegi | 2017-10-20 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

長岡京市の愛宕灯籠

いよいよ長岡京市へやってまいりました。

この地に長岡京という都が置かれたのは784年で、はるばる奈良から持ってきたのは桓武天皇という剛腕天皇でした。即位からわずか3年後のことです。
しかし、たった10年後の794年に都は再び移されて有名な平安京が開かれました。この遷都をしたのもまた桓武天皇で、長岡京では色々うまくいかなくなってのことでした。
ここまで、物集女の時にあれこれ知りました。

で、ここから。
うまくいかなくなった端緒となったのが、長岡京の建設責任者が暗殺されたことでした。
奈良から京都・長岡へ都が移って損をしたり腹が立ったりするのは旧都・奈良の人々です。今でいうところの既得権者ですね。桓武天皇はそもそも既得権者を嫌って、当時まだまだド田舎の山背(山の裏側)、今でいうところの京都へ遷都したわけです。
ということで、長岡京の建設責任者を殺めたのは奈良の関係者だろうということになりました。

で、嫌疑がかけられたのが桓武天皇の実の弟の早良親王という人です。この人は、桓武天皇が天皇になる20年も前に出家して、奈良東大寺にいました。出自がいいので、いい寺に行くのでしょう。当時の奈良のいい寺ということは、すなわち既得権益の中枢ということでしょう。

王様がいる。王様と仲良くない旧勢力がいる。王様に弟がいる。弟は第一線からは離れている。しかし、旧勢力が弟を担いであれやこれや暗躍する。
という、もう絵に描いたような権力闘争物語が展開されたということのようです。

大阪南部系の土師氏(土木技術集団)で固めた長岡京から、平安京に移るにあたって奈良系の土師氏を招へいしたあたり、桓武天皇の巧みな懐柔策だったのかもしれないし、あるいは、奈良の実務家をもって奈良の寺社勢力を抑えるという、これもまた巧みな操作術だったのかもしれません。

あるいは、暗殺された長岡京の建設責任者は、太秦に出てきた「秦」の一族の人だったそうで、長岡京の建設にあたっても秦氏の力を得ていたもようです。
なので、奈良系の土師氏の招へいは、長岡京建設でさらに力を得てしまった秦一族への牽制という意味もあったのかもしれません。平安時代には、長岡はかの有名な菅原道真(奈良系の土師氏)の所領になっていたようです。
華麗なまでの権力ゲームですね。大河にならないかな。古すぎて人気出ないか。

さて、その弟、早良親王が最晩年に幽閉されたのが、長岡京遷都の前から長岡にあり、平安京遷都後も、今も長岡にある乙訓寺という寺です。入場料が要るので行ったことはありません。
そして、早良親王という人は、日本史上唯一、亡くなってから天皇の称号を得ました。崇道天皇です。
というのも、早良親王が亡くなってから不吉なことが起こりまくったので、桓武天皇は慌てて天皇の名前を与えたり、上御霊神社を作ったり、さらには崇道神社を作ったりと、それはもう手厚く手厚くケアをしたのです。

早良親王からの平安、ひいては長岡京からの平安、この祈りによって丁寧に開かれたのが平安時代です。長岡なくして今の京都はなかったのですね。

愛宕灯籠とは、おそらく何の関係もない話です。すいません。

江戸時代の頃の長岡は、大都市・京都への近郊農業でわりと裕福だったそうです。今も「○○家住宅」という、農家の古い家が結構たくさん残っていて保存されています。それが裕福だったのか、昔の農家なら必要不可欠で当たり前サイズなのかはわからないのですが、立派であることは間違いありません。

愛宕灯籠はというと、だいたい3つの流れで発見されていて、西国街道ライン、長岡天満宮ライン、柳谷観音ラインです。

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※網かけ部分は既出です(向日市)


西国街道ラインは、そのまま向日市に入っていきます。
長岡天満宮は大きな池をたたえた素敵な神社で、明らかに長岡京市の精神的な中心です。今も長岡の富裕な住宅街は長岡天満宮の裏手の丘にあります。
考えてみれば、これも奈良系の土師氏の出世頭で、後に早良親王と同様に嫌疑をかけられて呪いの神になった菅原道真を祀っているわけですから、この地に巡る呪いの系譜ですね。おそろしや。

そして最後が柳谷観音(楊谷寺)で、これがまた不思議なお寺といいますか、大阪からも京都からも結構な距離があるというのに驚くほどやたらめったら講(参拝のためのグループ旅行団)が形成されて寄進がなされており、今は閉じているけど過去には門前に宿泊施設まであったようなのです。

今も無数に掲げられている各講による「参拝記念板」や、整然にも雑然にも並ぶ奉納石灯籠を見ると、「愛宕さんには月参り」ほど熱心かは不明ながら、一方で、愛宕神社では考えにくいほどの大阪の参拝者も集めていたのだと思われます。

愛宕灯籠は、そんな柳谷観音へ向かう山道の入り口あたり、集落の出口部分になぜかかなり集中的に発見されています。ひょっとすると、柳谷観音はここでも、高槻でそうだったようなバーチャル愛宕の機能をはたしていたのかもしれません。

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012_長岡京市友岡

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067_長岡京市神足

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066_長岡京市神足

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081_長岡京市馬場

以上、おそらく西国街道ライン。

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240_長岡京市開田

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239_長岡京市開田

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011_長岡京市天神

以上が長岡天満宮ライン。

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013_長岡京市下海印寺

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065_長岡京市奥海印寺

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218_長岡京市奥海印寺

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217_長岡京市奥海印寺

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216_長岡京市奥海印寺

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215_長岡京市奥海印寺

以上が柳谷観音ライン。
そして、下のは分類不能で、富裕農村の灯籠ではないかと邪推。デザインが素敵で、この灯籠から望む景色も素敵なのです。
もしくは、これもと天満宮ラインなのだろうか。よく見ると、同じ道の上にありますね。

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219_長岡京市長法寺

最後に浄土谷。
浄土谷ということは柳谷観音ラインといえばそうなのかもしれませんが、やっぱりこれは浄土谷の愛宕灯籠と呼びたい。
捜索初期の頃の一番のお気に入りです。
こんなところにたった一つで、それでもちゃんと建っていたのだな、と妙に胸が熱くなりました。

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036_長岡京市浄土谷


あれからずいぶんとたくさんの灯籠を探し出したものです、我ながら。
なんか、若干の郷愁にすら駆られています。切ない。



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by fdvegi | 2017-10-16 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

高槻市・島本町の愛宕灯籠

京都を脱して大阪へやってきました。高槻市です。
大阪にまであるのか!という驚きが走る一方で、すぐ隣は京都だし、山の向こうは亀岡ですので、言われてみればさもありなん、なのかもしれません。

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面白いのは島本町で、島本町自体のことはよくわからないのですが、その愛宕灯籠の位置です。
淀川の堤防のすぐ下にあります。

高槻や島本や山崎で「歴史」というキーワードを使えば、間髪入れずに「西国街道(山崎街道)」が返ってくるのが相場です。
しかし、意外や、近辺の西国街道上には愛宕灯籠は見つかっていません。

一方で、淀川沿いにはある。しかも「高浜砲台跡」といって、江戸時代の末期に、徳川幕府が大坂湾から京都に侵入する外国船に備えて淀川の左岸と右岸に砲台を設けたとされる、ごく近くの場所にある。

砲台と灯籠には直接の関係はないでしょうけど、とにかく江戸の歴史色濃い場所が島本町にあり、その島本町に愛宕灯籠が見つかったわけです。
このことは一つの重要な気付きをもたらしてくれました。歴史は道だけじゃない、川もだ。

思い返してみれば、大河ドラマでも坂本龍馬はよく船で京都伏見から大阪難波へ行っていました(帰路はどうしたんでしょう。下流から上流への船便もあったんでしょうか)。いわば川の西国街道あったのです。

ちなみに、奈良平城京の都も、その材木は琵琶湖岸の森林で切られて、木津川と大和川を通って奈良に運ばれました。奈良の近くの山から陸上を運ぶより楽だったからです。
水を侮ってはいけません。

そういうわけで、地図の右端、島本町の灯籠は京都都市部からの流れだろうと思っています。
一方、高槻の灯籠たちはというと、これも左寄りと真ん中とで別の流れを汲んでいるんじゃないかと想像しています。

地図の真ん中に並んでいるのは、上2つが成合というところと下2つが安満というところで、成合は長岡京市の山の上にある柳谷観音という神仏習合のお寺への巡礼途上です。この柳谷観音は昔大人気だったようで、今も、明治大正期の講の看板が無数に掲げられています。
もちろん柳谷観音は柳谷観音であって愛宕神社ではないですが、高槻から見れば北の山の上の寺社仏閣ということで、もう一つ先にある愛宕神社に見立てていたんではないか、つまり、気持ち的に愛宕神社の目の前の遥拝所として機能していたのではないかというのが、現代の邪推です。

安満に至っては、愛宕神社と称する小さな祠すらあります。
つまり、はるか遠いの山の上に愛宕神社があってそれはさすがに遠い。
では、ということで手が届くレベルの山の上に仮想の愛宕を設置。
さらに、日々の生活圏には我らの愛宕を設置。
そういう発想。

で、地図の左側は浦堂というところですが、地図を見るとわかるように、成合から北に続く道(真ん中)と、浦堂から北への道(左側)とは、まったく別ものなのです。地図の欄外で合流もしていません。
成合の道は柳谷観音を経て長岡京市へ行き、浦堂の道はかなり突き進んだ末に亀岡にたどり着きます。

(ちなみに、島本町から北へ続いて見切れている道(右側)も、浄土谷というところを経て、成合からの道に合流して長岡京市にたどり着きます。浄土谷にも一つ愛宕灯籠はあるので、そういう意味で、島本町の灯籠は京都市街から川経由ではなく、長岡・浄土谷の流れを汲んでいる可能性もあります。もう何でもありみたいな感じですが)

つまり、浦堂にある灯籠は、市内に203基を誇る亀岡の直系ということになるのではないかと。


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245_三島郡島本町高浜

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248_高槻市成合東の町

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249_高槻市成合中の町

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246_高槻市安満北の町

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247_高槻市安満中の町

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253_高槻市浦堂本町

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252_高槻市真上町

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251_高槻市殿町

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250_高槻市大手町


251_は、西国街道の芥川宿の出入り口です。なので、亀岡直径とはまた別の流れを汲んでいると思われます。

250_は、キリシタン大名高山右近が有名な高槻城のものすごい城下です。大手町というくらいだし。

色んな流派が流れ込んで混然一体の愛宕灯籠絵巻を成す町、高槻。
侮れない。ものすごい面白い。




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by fdvegi | 2017-10-15 00:30 | 京都在住 | Comments(3)

向日市の愛宕灯籠

向日市です。「むこうし」と読みます。
激辛商店街として関西ではちらほらローカル番組に登場します。
が、敬意や親しみを込めて激辛の向日に言及し、あるいは訪ねたりする関西人を、ぼくは知りません。
残念です。

かつては長岡京という都が置かれた場所でした。
なのに「長岡京」という言葉は隣の長岡京市に取られてしまったし(なんで?)、そもそも都自体が10年しか置かれてなかったしで、イマイチ盛り上げきれない感が強いです。

さらに、大阪北部(北摂地域)や京都では、良くも悪くも「向日町けいりん」が有名ですが、その競輪場もなくなるとかなくならないとかで長年ごたごたやっており、率直に言ってぱっとしません。
さらに言えば、1972年に市制が敷かれて40年以上を経た今でさえ、旧町名である「向日町(むこうまち)」が幅をきかしているという、もう何が何だかわからない全国屈指の狭小市です。
かてて加えて、2017年10月、ヒアリ上陸のニュース。

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と、そんなせいもあって藁にもすがる思いなのか、あるいは単に歴史への関心が高いのか、西国街道の整備とか愛宕灯籠を含む灯籠の移設など、「半径〇メートル以内」感のある歴史的事柄への取組みぶりがすごいです。
最初に挙げた「広報むこう」もそうですし、市の写真ニュースでも取り上げているほか、京都新聞でも取り上げられていました。
他にすべきことがあるのではないのかと、愛宕狂いのぼくですら、そんな思いがよぎります。


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086_向日市寺戸町

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244_向日市寺戸

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076_向日市寺戸町

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085_向日市寺戸町

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080_向日市寺戸町

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077_向日市寺戸町

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079_向日市寺戸町

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072_向日市寺戸町

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078_向日市寺戸町

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071_向日市寺戸町

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070_向日市寺戸町

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069_向日市上植野町

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083_向日市上植野町

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084_向日市上植野町

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082_向日市上植野町

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222_向日市上植野町

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220_向日市上植野町

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221_向日市上植野町


市内だけで全部で24基あるそうです。市がそう発表しています。これはすごい。大原越え。
ぼくは未確定を含めて22基しか見つけられておりません。どこにあるんだろ。

084_は、まさに「広報むこう」で「石灯籠」と表現されていますが、083_とのセットということでとりあえず載せております。
085_と080_は、愛宕が読み取れないものの、ネット上の色んなところで愛宕灯籠と紹介されています。
個人的には、むしろ244_が興味深くて、正体を知りたいところです。

誰か教えてください。



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by fdvegi | 2017-10-14 00:30 | 京都在住 | Comments(2)

大原野・沓掛の愛宕灯籠

灯籠を追いかけ回しているうちに、あっさりと秋になってしまいました。
先日は十五夜の月がまぶしく、取り囲む雲には鈍い虹色が反映されていました。幽玄丸出しです。
冷えた夜気を感じながら熱燗を飲んでいると、炎天下の嵯峨・太秦がますます懐かしく、愛おしく思えてきます。秋の郷愁ですね。

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さて、大原野です。
長岡京市と京都市西京区洛西タウンの間に広がる、まさに大きな原野ともいうべき一帯。
長い間、長岡京市に出入りしていましたし、洛西タカシマヤにもよく行っていたので通過はしていたのですが、驚くほど意識に上がってこない構造になっていると思います。この大原野という場所。不思議です。

奈良に有名な春日大社がありますが、奈良平城京から京都長岡京へと都を移した際に、その春日大社を小さくして京都へ持ってきていました。
それが大原野神社といいまして、この大原野の奥の奥、京都盆地の西端、小塩山の山すそにあります。
夏場のジョギングで走りに行って初めて知りました。
歴史の古さとしては、左京区よりも西京区の圧勝なのかもしれません。

灯籠はその大原野神社の周辺と、よくわからないけど東側の一極に集中している感じでした。
小集落をひとつひとつ丹念に探せばもっと出てくるような気もします。
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090_西京区大原野南春日町


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015_西京区大原野南春日町

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010_西京区大原野北春日町

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089_西京区大原野北春日町

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014_西京区大原野南春日町


小休止。ここまでが地図の左側。大原野神社周辺です。
010_が一番わかりやすいところに立っていて、ジョギングのコース上です。
それまで左京区でしか意識していなかった愛宕灯籠を、京都市内の西側で初めて、しかも不意に見つけたものですから、頭では何となくわかっていたものの、改めて、分布の広域さに感心したのを覚えています。


この先は地図の右側。
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243_西京区大原野上里南ノ町

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242_西京区大原野上里北ノ町

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241_西京区大原野上里北ノ町

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238_西京区大原野石見町

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237_西京区大原野上里南ノ町


ここまでが地図の右側。大原野には江戸時代みたいな小さな集落が散在していて、そのいくつかに灯籠が残っていました。
家の軒先で明らかに崩れつつある238_とか、我ながらよく見つけたなと思います。
242_は愛宕かどうか少し迷いはあるものの、小集落での密集感や位置関係からすると、そうであってもよかろうと思われます。確かなことは、はい、わかりませんが。


最後に沓掛に一つ。地図の左上の一つです。

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009_西京区大枝沓掛町


亀岡市との境界で、山陰街道の玄関口です。
亀岡市には市内だけで203基の愛宕灯籠が確認されています(「愛宕灯籠 私たちの身近にある石造物を訪ねて(平成6年)」より)。
一大集積地である亀岡から山陰街道を経由して京都市内へ流入して来たのか、それとも京都市と亀岡市それぞれで拡散・分布した灯籠が、この場所で面と向いて向き合ったのか。
どういう展開だったのだろう。




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by fdvegi | 2017-10-07 00:30 | 京都在住 | Comments(0)