<   2016年 06月 ( 3 )   > この月の画像一覧

みんな袋に入ってく

「あまちゃん」以来の宮藤官九郎のドラマを観ている。
「ゆとりですが、なにか」 今日が最終回。
このドラマを観ていてしみじみ思う。しみじみと感じる。痛感する。
帰属したい。
誰が?
知らないけど、自分も含めて、たぶん多くの人。

「あまちゃん」が終わったとき話題になった「あまロス」の一例として、新聞に、録画していた放送を何事もなかったように毎朝一話ずつ見直す(男性、○○台(割といい年))、という気持ちの悪いコメントが載っていて、震撼したのを今もよく覚えている。
帰属を失う瞬間の恐怖がここによく表れているし、逆説的に、帰属することの大切さ・すばらしさ・心地よさをよく表していると思う。

あまちゃんは言わずもがな問答無用のコミュニティである東北という地方、そして職業集団に、ゆとりたちはゆとり世代と呼ばれることで仲間意識を自明のこととして共有できる集団に、属している。
属しているというか、属したのだ、ドラマのスタートとして。

あまちゃんは最初、人とうまくなじめない少女という設定だったし、ゆとりの人たちは人たちで、それぞれに「孤軍奮闘」してうまくいかないという設定だった。
「うまくいかない」ことが強調されているけど、その実、重要なのは、ある時点で「はい、スタート!」と声をかけられるくらいに明確に「何かに属する」ことを始めたことなのだと思う。

その中で盛り上がるドラマ。
逆にいうと、その中でしか盛り上がれないドラマ。

帰属という言葉を使っているけど、それは最近はやりの「つながり」と似ているかもしれない。
しかし、「帰属」と「つながり」はおそらく天と地くらいに違う。
そのことは「あまちゃん」の中でも明確に示されており、かつきわめてナチュラルに我々国民に受け入れられた。
それはアキちゃんとゆいちゃんの「つながり」であり、キラキラとかけがえのないまぶしさを放つ一方で脆弱で心もとない「つながり」の崩壊というか立ち消えと、コミュニティ(集合体)への併合だとぼくは思う。

最初、物語りは「つながり」から始まった。
アキちゃんとゆいちゃんによる、個人と個人が知り合うという行為から始まったのだ。
しかし、ある時から個人と個人の、アキちゃんとゆいちゃんの「つながり」はあっさりと分断され、東京の「GMT」メンバーや寿司屋を含めた東京という地における(ごく限られた)コミュニティーや、北三陸駅の「ありす」という場に代表される集合体に飲み込まれた。

ゆいちゃんは個々人を代表する「つながり」のシンボルとしてかなりの間不遇を囲うこととなり、その上、最後は「ありす」というコミュニティに受け入れられ飲み込んでもらって自分を取り戻す。

茜ちゃんは、坂間家と坂間酒造にはいるとともに、世代的には最初から入っているとはいえ、いよいよ本腰入れてゆとりコミュニティに入った。みんな入っていく。

みんな、「つながり」では足らない。たぶんそういうことだ。「帰属」したい。
点と点でつながりたいんじゃない、袋に入りたい。(永田紅と河野裕子に捧ぐ)

そして誰もいなくなる(点としては)。
みんな袋に入ってる。

最終回を前にして、今夜、はやちゃんにメールした。
柳小飲み会またしようって。

c0072352_23431425.jpg

[PR]
by fdvegi | 2016-06-19 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

振り出しに戻ってばかりもいられない

iPhoneを5からSEに買い替えた。
長い間世話になったAUを離れ、電話番号はそのまま格安SIMへ。
新しい生活を始めるという、意識されない意思だったんだろうか。

新しいことがうれしくて、iTunesで音楽も買ってみた。
そもそもは森山直太朗の「生きる(って言い切る)」の入ったアルバムが欲しくて音楽熱がじわじわと湧いていたのだけど、iTunesは開くたびに久しぶりでよくわからないし、ちょうど電話も変わるしでタイミングを失っているうちに、気がつくと Cubetone というバンド2枚と Goma&jungle rhythm section の「Afro Sand」に変わっていた。
どちらも非常にいい。ウーファーが欲しくなる。

結局、新しい電話には、野狐禅といいMokaveといい今回の2組といい、もう存在しない名義の音楽ばかりが入っている。(Gomaさんはまだやってはいるのかな。)
いなくなっても残るのは偉大だと思う。そういう仕事。

電話が変わっても生活は変わらない。
仕事の仕方も迷い方も失敗の仕方も、わからない人の言っていることのわからなさも
上司の言っていることの意味不明さも、おそらくこの先ずっと変わらないんだろう。

6月12日は、昨年、藤井さんといづぼんで飲んだ後、はじめて日記を書いた日だ。
3年分が一冊になっている日記帳なので、一周回って今夜やってきた。
振り出しに戻ったのでなければいいけれど。
なんかちょっと不安になる、雨の夜は。
背中が痛い。

c0072352_1154387.jpg

[PR]
by fdvegi | 2016-06-13 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

うらみつらみはこれで最後に

ついこないだの話。
500ml入りの日本酒を半分くらい飲んだところで寝落ちしていしまった。
娘がまだぐずぐず言ってる布団にもぐりこみ、娘より先に眠っていた(らしい)。

もともと強いとは思ってなかったが、こんなにも弱かったかと、さすがに驚きを隠せない。
と同時に、その弱さを覆いかくしてあまりあった何か、よく言えば気の張り、の恐ろしさ。

だって、週7日のうち少なくとも1回は750mlくらい日本酒を飲んで、4-5回は360ml(180ml×2)飲んでいた。
それを少なくとも1年は続けたのだ。
帰路、近くのファミマでワンカップを買って自転車をこぎながら飲み、生鮮館が閉まっていれば元田中のフレスコでワンカップとビールと2割引きの刺身を買って、今度はビールを飲みながら帰る。
だいたいそういう日々。
翌朝は7時に起きて8時に出勤した。もうあんまり思い出せないけど。
自転車置き場に自転車を停める瞬間、壁に前輪をぶつけてサドルからおりる感覚だけが、なぜか鮮明によみがえる。なんでだろ。

さらに、下手をすると夜中の4時や5時に「バチン!」と聞こえて目が覚める。
耳元でするのか体の奥で鳴っているのかわからないで、とにかく飛び起きる。いや、跳ね起きる。そういう感じ。
大急ぎで部屋を出て、別の部屋で電気をつける。部屋を明るくすると少し落ち着いた。
で、まんじりともせぬまま8時を迎える。

ふーーーー。
いやだいやだ。

あの間、肝臓や膵臓やその他もろもろの臓器に一体どれだけの負担をかけただろう。
本来、日本酒250mlで陥落するところ、その倍くらいの負担を毎日休みなく1年間かけ続けたのだから、人道にもとる罪深さと言わざるを得ない。
タイの仏教なんかが(過去に)厳しく戒律を守っていたのは、やっぱりこういう人道への違背を戒める目的だったのだろうか。
それは自身の健康や長寿とか家族への責任とかとは次元を異にする、人道という言い方はたぶんおかしくて、神とか仏とか、生かしてくれる大いなるものへの畏敬なのかもしれない。
生かしてくれるものに敬意を払うという一周回った自愛。
原因と結果に直接的でつまり効率的な関係を求めない余裕、あるいは保険的な装置。
そういうの、いいと思う。とてもローカルな思考かもしれないけど。

あがめて、おがむ。もうオガムオガム。
ミャンマーの寺に行きたいな。一日ぼんやり。
ひょっとしてヤンゴン人たちももうそんなのんきな過ごし方はしなくなってたりしてね。

c0072352_20492749.jpg

[PR]
by fdvegi | 2016-06-04 00:30 | 京都在住 | Comments(0)