愛の単独走、服を着ろ

銀行にはおれおれ詐欺に引っ掛かっていると思しき人を止めようとする担当の人がいるらしい。で、その人がいざ止めようとすると、今まさにおれおれに引っ掛からんとしている人は、その銀行の人を突き飛ばして怪我をさせてまで振り込みを遂行する、と前に新聞に書いてあった。

今日の京都新聞を読んでいたら、おれおれ詐欺について書いてあった。
とかく被害額がすごいらしい。1月から8月だけで214億円ですって。
(全額とは言わないまでも、このタンス貯金の何割かが市場で出回ってれば、それなりに経済効果が出てるんじゃなかろうか。おれおれ景気)
で、水際に警察官を投入しても止めようとしてもできないし、こうなったらもう

犯罪に使われないATMの開発とか、犯人の悪知恵に勝つ技術や制度を考えといけない時代になっている
と締めくくっていた。
え。

「技術立国日本」という呼び声が後か先かは知らんけど、このありようはいかがなものかと、さすがに最近は誰でも思ってるんじゃなかろうか。
立派な技術があれば、使う人間は何でもよし。
といった風潮が、何だか共通理解とも言えないような、根柢の起点みたいな、そんな状態になってるような気がしてしまう。

「何でもよし」な人間には、技術と同じくらい、次はちゃんとした(行政)サービス、非常にふんだんで痒いところに手が届くサービスが必要になる。
行政へのやたらと苛烈な、ちゃんとしない行政サービスは100パーセント悪、みたいなバッシングはちょっと度を越してる気がしないでもない。

「何でもよし」というのは、つまり「クオリティを求めない」ということだ。
技術や制度を重要視して重宝するのがいけないわけではなくて、問題は、「とりあえず人間のクオリティについてはおいといて」技術と制度をに目を向けることではなかろうか。
水を向ける。お鉢を回す。責任を転嫁する。丸投げする。放置する。荒廃させる。

「人間のクオリティ」なんていうと、また物凄く誤解がありありな感じだが、「人間として生きるにあたっての生活・環境・姿勢のクオリティ」とでもいいますか。
例えば、おれおれ詐欺って、突き詰めればとどのつまり、家族の話ではないのか。

おれおれ言ってる息子に後で電話で確認するのが難しいとしても、配偶者に相談してみる、おれおれ息子とは別の子どもに相談してみる、おれおれ息子に奥さんがいればその人に相談してみる、などなど、それだけでもある程度の抑止力にはなるまいか。

それがかなわない。
結果、おれおれ息子への愛情が圧勝。完勝。愛の勝利。
何たるアプリオリなるものの悲劇。
人間はこの丸裸の状態から服を着て、鎧をかぶって、武装しなくちゃいけない。

今のこの状態はあたかも、丸裸のままで、殺菌処理をし暖房をきかせた平野に一人で立っているようなものだ。

京都新聞の言っていることは、もっと徹底的な殺菌と暖房の強化、あるいは監守の増加ということになる。
ぼくはそれは違うと思う。
服を着ろ、と言ってほしい。
着衣を諦めるな。
たとえ今すぐ服を着ることがかなわなくても、5年10年かけて、「次の世代」はそれを学ぶ。
世の中はそういう風になっているとぼくは思う。

とてもセンシティブで触れようがないようにも思える家族の問題だって、行きつ戻りつしながらも、けれど結局、分散や孤立はこれ以上進まないとぼくは思う。
たとえば少年時代に父の単身赴任を経験したぼくは、この先どこへ転勤することになろうとも、地獄や宇宙の果てでない限り、家族がいれば家族を、なければ妻を連れていこうと決意している。

家族の維持と(行政)サービスの維持・利用を比べて、どっちもそれなりにしんどいが、後者の方が多少なりともロスが大きいと判断するようになれば、畢竟、人は家族へ帰るに違いない。
技術の向上と利用者の能力の向上を比べても、同じことになるだろう。
そっちの方がロスが少なそうだと思えば、人はそっちを取るように出来ている。
その方が楽だからだ。生きていくには楽な方がいい。

洗濯物を干しながら、そんなことを考えた。
天気が良くなってきて、うれしいな。
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by fdvegi | 2008-10-25 00:30 | 京都在住 | Comments(0)
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