弔う父

遠くに住んでいることもあって、自分は孝行らしいことをろくにしなかった。
父が死んでからの20年は特に寂しいことや苦しいことが多かったと思う。
それでも今日まで母がやってこれたのは、一重に近所の皆さんの御厚情のお陰です。
これからは、引き続き、残された自分たちにそれを向けて欲しい。

喪主の挨拶で父はそう言った。

見舞いに行った2日後、意識を失って4,5日、祖母は亡くなった。
よみがえりの歳子さんにしては意外で、あっけないとも思える、
あまりにも順当な死に方だった。

もうあと一年くらいは、医科学の常識などものともせず、
しぶとく、かたくなに、ある種の気ままさで生き続けるもとだと思っていた。

父の挨拶はよかったと思う。
故人も喜んでいるとか、故人に見守られてとか、
そういう情緒というか気休めが微塵もない。
そして、そこに期待できる人たちがいるからこそ不孝を続けられた。
という、大江健三郎が「ヒロシマ・ノート」で指摘した(自己)批判を、
痛烈な後悔と強靭な開き直りを臆面もなくさらけ出すことでやってのけた。

火葬場からの帰り道、山陰の田舎くさい風景を眺めながら、
あの灯台、むちゃくちゃ遠いと思ってたのにな、と彼は言った。

何だかどうもけろりとしている。
そういう人だ。

前の夜とその前の夜、いつの間にか中年の域に足を突っ込み、
二人の子どもも小学校に入ろうという甥を相手に、
彼が延々、亡き母の眠る隣室で酒を飲んでいたことを、ぼくは知っている。
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by fdvegi | 2006-02-28 00:30 | 京都在住 | Comments(0)
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