親贈りの儀

うちの保育園は保護者会がやたら熱心で、年がら年中、何かしらの集まりが開かれている。
大きいものでは夏祭りがあるし、小さいものではその打合わせや作業会が、それぞれの分科会で営々と行われている。
卒園式すら保護者会の主催か、少なくとも保育園との共催のようである。
そして当たり前のように、親同士が積極的に仲良くなることを奨励しているし、実際、仲がよさそうな小集団がたくさんある。
入園したての頃、ひどく面食らったのをよく覚えている。

親同士が仲良くなることは子どもにとって・保育にとっていいことだ、という強い信念がある。
これは本当に信念のようで、底意地が悪いぼくは過去、夏ごろに開かれた保護者会の集会の場で

親同士が仲良くなることが子どもにとってもいい、というのは感覚的にわかるが、実証的なデータというか、それを裏付けるような研究結果があるのでしょうか?(←保護者の参加が熱心な保育園とそうでない保育園の卒園児を長年にわたって追跡調査し、その後の人間的な成長や社会的な成功等を比較する、みたいな研究があるわけない、という大前提で)

という質問をしたことがある。
保護者会への参加と保護者会としての業務負担はぶっちゃけた話、義務でもあって、共働きで忙しいから子ども預けているのに、その預け先で用務を増やすなんて本末転倒としか思えない。
実際、とても疲れたり消耗したりする。
それをあえてやるというのなら、それなりの根拠がほしい。

ところが答えは、何のてらいもなく「知らない」というものだった。でもやる。
そして、「実際のところ楽しいし」とかいうおちゃらけたとしか思えないコメントで流されてしまった。ガーン。
別に徹底的に嫌というわけじゃない。
ただ、真顔の正義面で正当性を語られるのが嫌なのだ。
なので、最後を「楽しいし」という気持ちの表現や感想で終えられたのは、不肖化ではあったけど、ぼくにとってはぎりぎりの線で正解だったと思う。

そんな保護者会と、つかず離れずやってきた。
で、昨夜、初めての父親飲み会に行ってきた。
何の大義名分もない、ただ、保育園の同じクラスの父親たちだけで飲み会をやろう、という趣旨の集まり。
内心、strava友だちかPolar友だちを見つけたっかったのだけど、結局、それは見つけられなかった。
3人の担任の先生も参加していて、夜中の12時まで楽しく飲めた。

で翌朝。
娘に飲み会の写真を見せたところ、「○○ちゃんのお父さん!」と一番仲良しの子の父親に目を輝かせ、さらに背後に写っている数人についても「○○ちゃんのお父さん」「○○君のお父さん」「○○先生!」と、それはもう活き活きと、興奮と喜びに打ち震えているかのようだった。

その様子を見て、ぼくはすぅっと合点がいった。
あぁ、親同士が仲良くなることは子どもにとって非常にいいことだ、と。
正直うまく説明できないというか、もしそれがそれだとして、ではそれのどこがいいことなのか、はよくわからない。
でも感覚として直観として、それは子どもにっていいことなんだ、と思えた。

子どもにとって、世界は大まかに二つに分かれていて、それは「子どもらの世界」と「大人との世界」だと思う。
子どもらの世界では、子と子が遊ぶ。
「遊ぶ」というか、保育園児くらいの子どもらにとって、「遊ぶ」は「生きる」とか「存在する」とか、非常に根本的な概念になっていると思う。
「お父さん、遊ぼう」というとき、娘は父と遊戯をしたり楽しく過ごすということより「お父さんと存在する」「世界をお父さんを含めたものとする」ことを選んだような感じがする。

子と子の遊びの中で、それぞれの家族や親に言及することもあるだろう。
自分の好きな存在(親)を共有しようとする、価値交換とか価値の贈与の意味合いがあるのも知れない。
しかし、好きなものがなまじ親であるばかりに、単純にきれいな石とかおもちゃとか「価値のあるもの」にはなり切れない。
親と子である時点で他人同士の子と子と関係より強固なので、子と子との関係にくさびを打ってしまうのだ。

(子ー子) :子ども同士
  ↓
(子ー{子)=親} :片方の子どもが親に言及 
{親=(子}ー{子)=親} :両方の親が子どもに言及

今言って初めて思ったけど、4歳児同士の会話の中で、片方が親に言及したとき、もう片方も親に言及するかどうか慎重に調べてみてもらいたい。
上の適当な図によれば、両方の子どもが親に言及すると、子と子と間のくさびがより強く(多く)なってしまう。
自然発生的に賢明というか社交という生きる知恵を先天的に身につけているはずの子という生き物は、片方が親に言及しているときは、自分は親への言及を控える、という行動をとってはいないだろうか。
じつに興味深い。

それがである。
親と親につながりが生じ、そのつながりを子と子が認識すれば、親という子にとって「かなり高い価値のあるもの」の交換が可能になる。
「かなり高い価値のあるもの」の交換を通じて、子と子はより一層の強固で緊密な関係を築けるだろう。
つまり友情を結ぶことになるのではなかろうか。

友情を結ぶことの成長や成功における価値がそもそもわかっていないので、「だから有価値だ!」と断言することができないのは残念だけど、けれどやはりそう思う。
なんとなく確信している。

また、子と子の関係だけではなく、子と先生の関係でも、そこに親が含まれ、子と先生と親が循環するような環境になれば、子は一層先生に強く求めることができるかもしれないし、一層いろいろなものを表現できるようになるかもしれない。
それはいいことだと思う。

それに、親と親や、親と先生が知り合いまくることで、一種のバーチャルな大家族的コミュニティ、村落的コミュニティになるのかもしれない。
それがいいか悪いかは、特に昨今、個人の好みによるところが大だとは思うけど、一般に、非行に走りにくいとか、そういう効果はあるやに思われる。

そういうわけだ。
やってみて初めてわかった。
子どもの成長というのは、子らの場所で子らに任せるより、親たちもいろんな時間と場所を使ってみるといい。
と、真顔の正義面で正当性を語りたい。



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by fdvegi | 2017-07-02 00:30 | 京都在住 | Comments(0)
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