みんな袋に入ってく

「あまちゃん」以来の宮藤官九郎のドラマを観ている。
「ゆとりですが、なにか」 今日が最終回。
このドラマを観ていてしみじみ思う。しみじみと感じる。痛感する。
帰属したい。
誰が?
知らないけど、自分も含めて、たぶん多くの人。

「あまちゃん」が終わったとき話題になった「あまロス」の一例として、新聞に、録画していた放送を何事もなかったように毎朝一話ずつ見直す(男性、○○台(割といい年))、という気持ちの悪いコメントが載っていて、震撼したのを今もよく覚えている。
帰属を失う瞬間の恐怖がここによく表れているし、逆説的に、帰属することの大切さ・すばらしさ・心地よさをよく表していると思う。

あまちゃんは言わずもがな問答無用のコミュニティである東北という地方、そして職業集団に、ゆとりたちはゆとり世代と呼ばれることで仲間意識を自明のこととして共有できる集団に、属している。
属しているというか、属したのだ、ドラマのスタートとして。

あまちゃんは最初、人とうまくなじめない少女という設定だったし、ゆとりの人たちは人たちで、それぞれに「孤軍奮闘」してうまくいかないという設定だった。
「うまくいかない」ことが強調されているけど、その実、重要なのは、ある時点で「はい、スタート!」と声をかけられるくらいに明確に「何かに属する」ことを始めたことなのだと思う。

その中で盛り上がるドラマ。
逆にいうと、その中でしか盛り上がれないドラマ。

帰属という言葉を使っているけど、それは最近はやりの「つながり」と似ているかもしれない。
しかし、「帰属」と「つながり」はおそらく天と地くらいに違う。
そのことは「あまちゃん」の中でも明確に示されており、かつきわめてナチュラルに我々国民に受け入れられた。
それはアキちゃんとゆいちゃんの「つながり」であり、キラキラとかけがえのないまぶしさを放つ一方で脆弱で心もとない「つながり」の崩壊というか立ち消えと、コミュニティ(集合体)への併合だとぼくは思う。

最初、物語りは「つながり」から始まった。
アキちゃんとゆいちゃんによる、個人と個人が知り合うという行為から始まったのだ。
しかし、ある時から個人と個人の、アキちゃんとゆいちゃんの「つながり」はあっさりと分断され、東京の「GMT」メンバーや寿司屋を含めた東京という地における(ごく限られた)コミュニティーや、北三陸駅の「ありす」という場に代表される集合体に飲み込まれた。

ゆいちゃんは個々人を代表する「つながり」のシンボルとしてかなりの間不遇を囲うこととなり、その上、最後は「ありす」というコミュニティに受け入れられ飲み込んでもらって自分を取り戻す。

茜ちゃんは、坂間家と坂間酒造にはいるとともに、世代的には最初から入っているとはいえ、いよいよ本腰入れてゆとりコミュニティに入った。みんな入っていく。

みんな、「つながり」では足らない。たぶんそういうことだ。「帰属」したい。
点と点でつながりたいんじゃない、袋に入りたい。(永田紅と河野裕子に捧ぐ)

そして誰もいなくなる(点としては)。
みんな袋に入ってる。

最終回を前にして、今夜、はやちゃんにメールした。
柳小飲み会またしようって。

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by fdvegi | 2016-06-19 00:30 | 京都在住 | Comments(0)
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