巡礼の旅

5月31日の日曜日、娘と一緒に御蔭神社へ行った。

週末のランニングができなくなって久しい。
去年の9月には行けなくなって、あとは長岡でスポット的に走っていた。
京都で最後に走ったのは10月の終わり、御蔭神社を通って八瀬神社に行ったコースだった。
正月休み以降は長岡へ出向く機会も減って、ほとんど休止している。

先日、同僚のお父さんと酔っ払いながら話しをした。
自然と、同じ上司を持ってしまった者どうしの話になって、一つ笑ってしまったことがある。
図らずも二人して、まさるさんの墓参りで同じようなことを語りかけていた。
やれるだけやるとか、頑張るとか、そういうことを、精一杯自分を整理して、出征前に手紙を書くように。
それで何とか自分を立て直した、と。

お父さんはすぐれて俗物的で物質的な男なだけに、その彼までそんなことしていたのかと思うと、当時の彼の追い詰められようが察せられた。
それと同時に、よくわからないけれど、死者と向き合うことの機能を思った。

そんなことがあったものだから、日曜日は月曜日を前にして御蔭神社に行きたくてどうしようもなかった。
何とかして荒魂さまのもとまで行って、何とかしてほしいと頼みたかった。
走っていくのは時間的にも体力的にももう無理だ。
だから一人、自転車で行こうと画策した。
けれど、娘が昼寝をしないのでだめだった。
それならばと娘を連れて自転車で行こうと思ったけれど、せっかく自転車があるのにヘルメット買うことすらできない。
結局、車で行った。

車で行けるところまで辿り着いた時には娘はすでに眠っていた。
申し訳ないけど起きてもらって神社まで一緒に行った。
木々に囲まれた未舗装の細道はいつもの通り薄暗くて虫も多い。
娘はそれでも特に怖がる風でもなく、抱っこされていてくれた。
神社では、お行儀よく手を合わせてナムナムとしてくれた。
やたらと長く手を合わせている父にちょっぴり戸惑いつつも、こちらの様子を伺いながら父が手を合わせている間は辛抱強く同じ場所に立って、ナムナムらしいことをしてくれていた。
だから、父は思いがけず気が済むまで手を合わせていることができた。
荒魂さまと向き合うというより、ただすがっていた。

なんだか、毎日、三輪神社に参っていた中学生の頃を思い出した。
その前の日に、父と母を訪ねて芥川町に行き古い町並みを歩いたからかもしれない。
酒蔵町だったという富田の町並みをすこし思い出したせいかもしれない。

神社から車までの帰り道は、娘は自分で歩いてくれた。
時々抱っこを求め、不意に降りたがり、何メートルか小走りで戻ってそこから再び歩き始めるという見たことのない動きをしたり、林道から杉林の中へ入って行きたがったりした。
大半は車で来てしまったけれど、それでも歩いて辿り着く時間を持てたことが改めてうれしかった。

何かを先延ばしにしているだけなのかもしれないけれど、月曜日からは調子がいい。
うそみたいに気分の霧がない。
これが俗にいうパワースポットというものなのかもしれない。
けれど「パワースポット」という点・場所にはあまり意味がないように思う。
もちろん御蔭神社という場所は大切だけど、その大切な場所へ何とか自力で訪れるという行為が大切なんだと思う。
そういう意味で、場所を示す「パワースポット」という言葉は事実を見誤らせる。
「神頼み」という行為を示す言葉が必要だと思う。

走ることを巡礼することと勘違いするのはおかしいかもしれない。
だけどおかしくないケースや、おかしくない人がいても、それはそれでおかしくない。
間違いなくぼくはそのケが強い。
何とかしてランニングを復活させよう。
せめて娘との自転車を始めたい。
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by fdvegi | 2015-06-02 00:30 | 京都在住 | Comments(0)
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