9.11テロをモデルにしたり、それに触れた少説というのは、あれから何年か経っているのにそういえばあんまり聞いたことがなくて(「博士の愛した数式」のルート少年の誕生日は思わせぶりも思えた9.11だったが)、いわゆる評論やらルポルタージュの類に多くの関心が移っていったわけだから、島田雅彦だったか誰かが直後にどこかで言っていた、「小説はテロに勝てるのか」みたいな疑問には見事に答えが出ていたってことなのかもしれない。
そういう点で、この「千々にくだけて」は見事に一矢報いた例だと思う。 説明するか・しないか、させてあげるか・させないか、理解するか・そのポーズをとるか、とかそういったことが懇々と説いてあって、かつ評論とかルポルタージュと決定的に(?)違って、極めて個人的な問題にまでぎゅっと引き寄せてある。 こういう個人の一矢の集積が、つまりは勝ちってことだとも思う。 ところで、この本を読んでいる間は、とにかく色んなことを思い出した。 ミャンマーのことや、旅先で知り合ったどの国でも中華料理しか食べないという日本人のことや、スウェーデンのKlas Ostergrenという人の短編集や、9.11のまさにその時自分が友達の家でほとんど半裸で馬鹿な遊びをしていたことや、旅行中イスタンブルの若者が戦争だ戦争だ!と何か知らんが怒って息巻いていたことや、母のことや、何やらかんやらとにかくほとんど全てとも思えてしまうくらい多くのことが、順不同で、どれも揃って真剣な面持ちで思い出されたことが不思議で、心地よかった。 曖昧でぼやーんとした疑問というか不安というか不消化というかは、たぶん誰でも持っていたり、かつて持っていたことがあったと思うんだけど、ぼくもその例外ではなくて、上に挙げた頃から今の今までばっちり続いているその気分の放浪とでもいうべき感覚を、9.11テロは世界や国家全体に押し付けたんだという気がしている。 で、それが目に付いて仕方ないわけだけど、じゃあそればっかりかというと、実はちゃんと(?)各個々人にもそれを植え付けたり、あるいは元々あったそれを濃くしたりしたんではなかろうか。 だから、ようやく今になって出てきた“9.11小説”(こんな言い方はしたくないけれど)が、9.11以前の各個人の危機を、国家や社会の危機に覆われて見えなくなってしまっていたそれを、改めて掘り起こしてきて(くれて?)、それで、こんな風に感心させられるじゃないかしら、と思う。 そういうのって、いわゆる名作とか普遍的とかって言うんじゃなかろうか。というより、重要な一作なんじゃなかろうか。
by fdvegi
| 2005-06-07 00:30
| 本を読んでみた
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