ぼくと友だち

先日、東京に行って10年ぶりの友人に会ってきた。
10年も行方をくらまして、ひょっこり王子に現れた彼は実は終始ちょっと緊張していて遠慮がちな節があったけど、こちらとしてはしばらく離れていたって友だちは友だちなものだから、裏も表もなく嬉しかった。
翌日は10年来の友人と相変わらず昼から酒を飲んだ。
そんな最中に、同じく10年来の友人が7年付き合ってきた彼氏と別れたというホットなニュースが舞い込んだ。
そうこうしていると、これも長い付き合いの友人が東京からやってきて、ライン制を装った実質スタッフ制の職場の悲喜劇を分かち合ったりして大いにわめきあった。

総じて、東京と京都のそば屋にばかりいた。しあわせだった。

ここで「曲げられな女」だ。
菅野美穂の出ているこのドラマを観ていて、なんだかすごく興味深いのだ。
真っ向から友だち友だちと言っている今の展開が。

恋愛、結婚、仕事、家族という贅沢な素材を、うまい具合に(とぼくは思う)デフォルメさせて織り交ぜながら、物語は登場人物たちの人生を展開させている(っぽい)。
そんな人生の一線級のテーマをちりばめておきながら、しかし少なくとも今のところ主人公たちの一番の価値は友だちに置かれている。
昔からの友だちでも、仕事の仲間でもない、何の係累もないか、あるかないかのつながりしかなかった、最近の新しい友だち。

そこが非常に興味深い。
これは、どういうことなんだろう。

友だちというのが所与のものではなくなくなった、ということだろうか。
恋愛や仕事や家族について考えるとき、友だちというのはいつも無条件に寄り添ってくれていたり、逆に反発しあったりするために存在していた。
だけど時代は変わりつつあって、友だちは恋愛や仕事や結婚のはしためにあらず。
同じ重みを持つ目的であり課題なのだと、そういうことなのかもしれない。

これを、友だちの価値の上昇、恋愛・仕事・家族の相対的な価値の低下とみるべきか、それとも、マネイジしなくてはならないものの増加という意味で、人生の複雑困難化ととるべきか、そのあたり自分でも何を言ってるのかさっぱりよくわからないけど、後者ととるのが優勢なように思える。
それはそのまま、人生の多様豊潤化とも言えるような気もするから。

そんなわけで、ドラマの行方に注視している。
友だちについて考えることは、自分の人生について考えることなのだ。
折々、特に実のない手紙を無作為の友人に宛ててしたためながら、ぼくはそんな風にしっかりと考えたことはなかったけれど、思えば、結局のところ今も昔もずっと物事というのはそういうものだったのかもしれない。
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by fdvegi | 2010-02-20 00:30 | 京都在住 | Comments(0)
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