うたかたよん

清水寺には本堂に入るより前、朱色の立派な山門を過ぎて階段をもう一つ上がったところに「胎内めぐり」というアトラクションがあって、いつだったかな、真冬に岐阜から友達が遊びに来てその時初めて挑戦したんだが、なんともいえないその胡散臭さに反し、すっかり心洗われる最高に素敵なひと時を過ごすことができた。

以来、色んなことに疲れたらまた行こう、よかった京都に住んで、すぐそこじゃん、気の合う人ができたら連れて行ってあげよう、と心に決めていたので、さっそく愛しの彼女を連れて行ってみたところ、なんか知らんが工事をしていて入ることができなくなっており、とても残念だった。

しかも、少なからず不安にさせるのは、当時は気がつかなったがその同じ建物で胎内めぐりとあわせてやっていたんであろう水子供養云々については、「工事期間中はどこそこでやっています」というお知らせがあるにもかかわらず、胎内めぐりについては、今はどこでやっているとか、いつ頃復活するとか、そういう情報が一切示されず、あたかも何か大きな意志というか権力が、それについては徹底的にしらばっくれてなかったことにしてやろうと企んでるかのような、そんな不吉な感じがした。

頼むからどうか胎内めぐりは生かして欲しい。

それは純たる然たる闇の空間で、闇が溢れ返るという表現が本物だということを教えてくれるばかりか、自分の手の位置がわからないとか、自分が本当に進んでいるのか、ていうか本当に立っているのかとか、どのくらい時間が経ったのかとか、ところで目持ってたと思うけど、あれって現実だったっよな、でも俺ちゃんと正しい使い方してたっけなどと、そういうことの一切がわからなくなる強烈な経験だ。

そこに初めて、全てを質し省みる、という機会は可能なのだな、とそう思って感心した。

ぼくは記憶力がいいとか、物覚えがいいとか、頭が切れるとか、根気強いとか、人望があるとか、そういう美点をほとんど持ち合わせていない人間だが、唯一、人に誇りうるものがあるとすれば、それは絶えず止まず自分や自分の考えや行いを省みるという作業を行っているという事実であって、その作業への意志や責任感や使命感だと思っている。

「方丈記」という話は、最後だけご都合主義的に念仏を唱えて死んでいく。それはまさしく、絶えず疑え、己を疑え、というメッセージなんだと思う。うたかたとはそういうことなのだ。

「胎内めぐり」という場所は、その総本山のような場所に思えた。胎内という文字と響きは、総本山という厳しさの場所でありながら、端的な雄々しさよりむしろ優しさでもってそれを促すというイメージを誘引し、それらがないまぜになっている感じが好きだったのさ。
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by fdvegi | 2005-04-04 00:30 | 京都在住 | Comments(0)
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