ライフ・スロート

病院ジプシー、と母が自嘲気味にそう言わざるを得ないくらい、子どもの頃から高校生くらいまでの間に、およそ病院という病院に通いまくったぼくだが、先日の耳鼻科は我が通院史上屈指の痛みだった。

あまりに痛くて涙がこらえられないどころか、鼻水とよだれが勝手に見る見る湧いてきて、看護婦さんはおろか自分で処置した医者までもが思わず本気で心配してくれた。

要は、荒れに荒れ、腫れに腫れ、燃え上がるほど炎症した喉に、イソジンの親玉みたいな薬を直につけられたわけだが、世界のどこかにはきっとああいう粘膜へ刺激を加えるような種類の拷問があって、色んな人が日々それで目を剥いて自分の分泌液の中でのた打ち回って苦しんでいるのかと思うと、たまらなく胸が締めつけられた。

「(嫌なことを)水で流す」というのは極めて日本的な物言いなんですよ、ということが声高に叫ばれていた時期がほんのわずかだけど一時あったように思うんだが、「のみ込む」というのもその「水に流す」と同じくらい抜本的で都合のいいドラスティックな概念なんだなと、しみじみと思った。何といっても飲み込んでしまえばいいわけだから。嫌いなおかずも、新しい知識も、面と向かっているいる相手も。

「水に流す」が、わやにしてしまう、なかったことにしてしまうなど、無に帰すことで一つの事を終え新たなことを始めようとするのに対し、「のみ込む」は一旦了承したり、身に付けたりと、自分の中に着地点を設定しそれを前提条件とした上で話を次のステージに運ぼうとする作業なわけだ。

とりあえずカオスにしてしまうという点である種神話的な「水に流す」に比べて、とっても人間的な「のみ込む」なわけだけど、それがいかに人間らしさというか、人間である事を根本的に支えているかということを痛感させられた。飲み込めないと、食事ができないのは当然として眠れない。3時間ほど眠ると、口の中に唾が溜まって目が覚める(それを流しで吐いて水に流す)。この不快。

早く人間になりたい、と叫ぶその痛切な気持ちが、なるほど、よくわかった。
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by fdvegi | 2005-03-29 00:30 | 京都在住 | Comments(0)
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