君とナフサ

一緒にアメリカに行ってた人と久々に会った。
夏の京都だ、床に行くぜい、なんて意気込みはあっさりキャンセルされ、
鹿児島料理屋で豚の角煮なぞ食べる。
うまいんだからいいじゃないか。
というか、川床ならまだしも、鴨川の床に行く地元民ってどれだけいるんだろう。

さて、不意にNAFSAが話題に上った。
それで、100年ぶりくらいにNAFSAのことを考え、ぼくはすらりと「参加したい」と言った。
我ながら一瞬「え?」と思い、それから、
アメリカ人たちのNAFSA信仰の正体に触れたような気がした。
今更ながら。

NAFSAといえば、アメリカにいた当時は、業界関係者で業界関係者を表彰しあったり、
そこで名声を得ることでキャリアアップしたり、世界中から関係業者を集めて見本市をしたり、
同じ穴のムジナたちの、金の絡んだ茶番にしか思えなかったんだが、
本来もともとの存在意義は、同業者間での専門知識の交換なのだ。
そういう業界関係者向けの冊子をたくさん発行しているし、
大きな会合では小セミナーが無数に開かれてケーススタディを共有し合っている。

恥ずかしながら、当時はその意義そのものがわからなかった。
それまでぼくが仕事をしてきた世界では、そういうことは上司や同僚に相談し、
教えてもらったり、一緒に考えたりして、判断を委ねたり、一緒に決めたり、
自分で決めるにしても後ろ盾を得たうえでのことだったから。

アメリカは、そういう仕組みなっていないのだ。
もちろん相談はするし、一生考えたりもする。
けれど判断は自分のもの。基本、自分一人のもの。
自分のオフィス(個室)で自分で決める。

日本に戻ってからのぼくの職場は、もちろん個室じゃないし他人の電話も取るし、
稟議書のラインがあって一つ一つ決裁を取る。
しかしながら、その相談結果にも、ハンコにも、一切の責任がついてこない。
これが驚くほど一切ない。
というか、2分後に同じを話をしたとしてもまともに覚えてすらいない。
すべてが起案者にのみ返ってくる。
(いや、ほんとにほんとの責任問題とかになればまた別なんだろうけどさ)

この環境に至って初めて、NAFSAの気持ちがわかりました。
そうかー。
気持ちわかる!
同じ問題、分かち合いたいよね。
今ここにある、明日までに回答を出さなきゃいけない、
あそこと、あそこと、あそこの理解を得なきゃいけないそういう問題を、
誰かと一生懸命知恵を絞って解く喜び。

そんな健全な労働意欲。
うさんくさいなんて言ってごめんなさい。

ところで政権交代したら、色々どうなるのかしらね。
「節約」なわけだろ、財源すべてが。
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by fdvegi | 2009-07-12 00:30 | 京都在住 | Comments(0)
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