愛の到来

すし屋のマグロっておいしい。
不思議なというか妙なというか、とにかく味があって心地よい歯触りがあって、
脂なんかなくても赤身で断然にうまい。
何か仕込みをしてのことなんだろうか。

そんなことを、西村鮮魚店でマグロを食べながら考えた。
ここの上マグロは、そんなすし屋っぽいマグロの味がする。
だからもうちょっと厚めに切って欲しかった。

先日の研修報告会、持ち時間30分のところを、俺と来たら50分も話してしまった。
だらだらとまぁ。

その話の中で、自分がきわめて何気に「淡々と」を連呼しているのに気が付き、
そういう言葉はこういう席ではあまりよろしくないだろ、と意識しながらも、
それでも引き続き、何かした時は常に「淡々と」という修飾をつけてしまう自分が
なんだかちょっと不思議だった。

社会を揺るがす大事ではないにしろ、それなりに激情を抱えながら過ごした2年なので
それをひたすら「淡々」と表現するというのは、思うに、
自分が淡々と過ごすことに強烈な憧れを抱いているか、
それらのことが決定的に過去のことになっているか、
そのどちらかか、あるいは両方なんだと推察される。

西村鮮魚店に現れた「アウトサイド」のオーラを明らかに放ちまくっている人は、
(ぼくはそういう人が現れる店が好きなのだが、店の人まで一緒になってそちら側に行かれてしまっては困る。その点、上燗やに一日の長があるだろう。近いからいいんだけど)
入店するが早いか昨今の社会情勢の変化の速さを、
まるで強豪チームのサイドチェンジの速さを語るように、
どこか高揚して誇らしげにさえベラベラと喋り出すのだった。

あぁ、社会というのは変化が好きなのだ。それも劇的な変化が。
そして今回の変化を引き起こしたその主要因は「信用」であって、もはや「情報」ですらない。
情報化の時代には、それはわずか5、6年ほど昔だったと思うけど、世の中がとにかく、
「これからは情報だ情報だ、大情報化時代だ」と自ら喧伝して、
社会の誰もが知るところとなったわけだけど、
「信用」について、そういうパブリック・リレーションはあっただろうか。
情報で出し抜けた人だけがいつの間にか信用の領域に入って行って、
そこでまた大儲けしたり、狂ったりしてただけんじゃないのか。
もはやある種の隔離じゃないのか。
なんてことを考えた。

ルンルンアウトサイドのそのお客さんと、その人から決して離れまいとして必死にすら見える店長は揃って、お金が紙くずになる時代の超近未来の到来を確信していた。
いやいや、確信してるのではなくて、楽しみに待っているのだ。
そうか。こういう力がまさしく変化を来すんだろう。

そんな風に思いながら、ぼくは淡々と酒を飲んだ。
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by fdvegi | 2008-12-21 00:30 | 京都在住 | Comments(0)
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