長岡京市の愛宕灯籠

いよいよ長岡京市へやってまいりました。

この地に長岡京という都が置かれたのは784年で、はるばる奈良から持ってきたのは桓武天皇という剛腕天皇でした。即位からわずか3年後のことです。
しかし、たった10年後の794年に都は再び移されて有名な平安京が開かれました。この遷都をしたのもまた桓武天皇で、長岡京では色々うまくいかなくなってのことでした。
ここまで、物集女の時にあれこれ知りました。

で、ここから。
うまくいかなくなった端緒となったのが、長岡京の建設責任者が暗殺されたことでした。
奈良から京都・長岡へ都が移って損をしたり腹が立ったりするのは旧都・奈良の人々です。今でいうところの既得権者ですね。桓武天皇はそもそも既得権者を嫌って、当時まだまだド田舎の山背(山の裏側)、今でいうところの京都へ遷都したわけです。
ということで、長岡京の建設責任者を殺めたのは奈良の関係者だろうということになりました。

で、嫌疑がかけられたのが桓武天皇の実の弟の早良親王という人です。この人は、桓武天皇が天皇になる20年も前に出家して、奈良東大寺にいました。出自がいいので、いい寺に行くのでしょう。当時の奈良のいい寺ということは、すなわち既得権益の中枢ということでしょう。

王様がいる。王様と仲良くない旧勢力がいる。王様に弟がいる。弟は第一線からは離れている。しかし、旧勢力が弟を担いであれやこれや暗躍する。
という、もう絵に描いたような権力闘争物語が展開されたということのようです。

大阪南部系の土師氏(土木技術集団)で固めた長岡京から、平安京に移るにあたって奈良系の土師氏を招へいしたあたり、桓武天皇の巧みな懐柔策だったのかもしれないし、あるいは、奈良の実務家をもって奈良の寺社勢力を抑えるという、これもまた巧みな操作術だったのかもしれません。

あるいは、暗殺された長岡京の建設責任者は、太秦に出てきた「秦」の一族の人だったそうで、長岡京の建設にあたっても秦氏の力を得ていたもようです。
なので、奈良系の土師氏の招へいは、長岡京建設でさらに力を得てしまった秦一族への牽制という意味もあったのかもしれません。平安時代には、長岡はかの有名な菅原道真(奈良系の土師氏)の所領になっていたようです。
華麗なまでの権力ゲームですね。大河にならないかな。古すぎて人気出ないか。

さて、その弟、早良親王が最晩年に幽閉されたのが、長岡京遷都の前から長岡にあり、平安京遷都後も、今も長岡にある乙訓寺という寺です。入場料が要るので行ったことはありません。
そして、早良親王という人は、日本史上唯一、亡くなってから天皇の称号を得ました。崇道天皇です。
というのも、早良親王が亡くなってから不吉なことが起こりまくったので、桓武天皇は慌てて天皇の名前を与えたり、上御霊神社を作ったり、さらには崇道神社を作ったりと、それはもう手厚く手厚くケアをしたのです。

早良親王からの平安、ひいては長岡京からの平安、この祈りによって丁寧に開かれたのが平安時代です。長岡なくして今の京都はなかったのですね。

愛宕灯籠とは、おそらく何の関係もない話です。すいません。

江戸時代の頃の長岡は、大都市・京都への近郊農業でわりと裕福だったそうです。今も「○○家住宅」という、農家の古い家が結構たくさん残っていて保存されています。それが裕福だったのか、昔の農家なら必要不可欠で当たり前サイズなのかはわからないのですが、立派であることは間違いありません。

愛宕灯籠はというと、だいたい3つの流れで発見されていて、西国街道ライン、長岡天満宮ライン、柳谷観音ラインです。

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※網かけ部分は既出です(向日市)


西国街道ラインは、そのまま向日市に入っていきます。
長岡天満宮は大きな池をたたえた素敵な神社で、明らかに長岡京市の精神的な中心です。今も長岡の富裕な住宅街は長岡天満宮の裏手の丘にあります。
考えてみれば、これも奈良系の土師氏の出世頭で、後に早良親王と同様に嫌疑をかけられて呪いの神になった菅原道真を祀っているわけですから、この地に巡る呪いの系譜ですね。おそろしや。

そして最後が柳谷観音(楊谷寺)で、これがまた不思議なお寺といいますか、大阪からも京都からも結構な距離があるというのに驚くほどやたらめったら講(参拝のためのグループ旅行団)が形成されて寄進がなされており、今は閉じているけど過去には門前に宿泊施設まであったようなのです。

今も無数に掲げられている各講による「参拝記念板」や、整然にも雑然にも並ぶ奉納石灯籠を見ると、「愛宕さんには月参り」ほど熱心かは不明ながら、一方で、愛宕神社では考えにくいほどの大阪の参拝者も集めていたのだと思われます。

愛宕灯籠は、そんな柳谷観音へ向かう山道の入り口あたり、集落の出口部分になぜかかなり集中的に発見されています。ひょっとすると、柳谷観音はここでも、高槻でそうだったようなバーチャル愛宕の機能をはたしていたのかもしれません。

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012_長岡京市友岡

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067_長岡京市神足

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066_長岡京市神足

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081_長岡京市馬場

以上、おそらく西国街道ライン。

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240_長岡京市開田

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239_長岡京市開田

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011_長岡京市天神

以上が長岡天満宮ライン。

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013_長岡京市下海印寺

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065_長岡京市奥海印寺

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218_長岡京市奥海印寺

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217_長岡京市奥海印寺

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216_長岡京市奥海印寺

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215_長岡京市奥海印寺

以上が柳谷観音ライン。
そして、下のは分類不能で、富裕農村の灯籠ではないかと邪推。デザインが素敵で、この灯籠から望む景色も素敵なのです。
もしくは、これもと天満宮ラインなのだろうか。よく見ると、同じ道の上にありますね。

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219_長岡京市長法寺

最後に浄土谷。
浄土谷ということは柳谷観音ラインといえばそうなのかもしれませんが、やっぱりこれは浄土谷の愛宕灯籠と呼びたい。
捜索初期の頃の一番のお気に入りです。
こんなところにたった一つで、それでもちゃんと建っていたのだな、と妙に胸が熱くなりました。

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036_長岡京市浄土谷


あれからずいぶんとたくさんの灯籠を探し出したものです、我ながら。
なんか、若干の郷愁にすら駆られています。切ない。



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# by fdvegi | 2017-10-16 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

高槻市・島本町の愛宕灯籠

京都を脱して大阪へやってきました。高槻市です。
大阪にまであるのか!という驚きが走る一方で、すぐ隣は京都だし、山の向こうは亀岡ですので、言われてみればさもありなん、なのかもしれません。

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面白いのは島本町で、島本町自体のことはよくわからないのですが、その愛宕灯籠の位置です。
淀川の堤防のすぐ下にあります。

高槻や島本や山崎で「歴史」というキーワードを使えば、間髪入れずに「西国街道(山崎街道)」が返ってくるのが相場です。
しかし、意外や、近辺の西国街道上には愛宕灯籠は見つかっていません。

一方で、淀川沿いにはある。しかも「高浜砲台跡」といって、江戸時代の末期に、徳川幕府が大坂湾から京都に侵入する外国船に備えて淀川の左岸と右岸に砲台を設けたとされる、ごく近くの場所にある。

砲台と灯籠には直接の関係はないでしょうけど、とにかく江戸の歴史色濃い場所が島本町にあり、その島本町に愛宕灯籠が見つかったわけです。
このことは一つの重要な気付きをもたらしてくれました。歴史は道だけじゃない、川もだ。

思い返してみれば、大河ドラマでも坂本龍馬はよく船で京都伏見から大阪難波へ行っていました(帰路はどうしたんでしょう。下流から上流への船便もあったんでしょうか)。いわば川の西国街道あったのです。

ちなみに、奈良平城京の都も、その材木は琵琶湖岸の森林で切られて、木津川と大和川を通って奈良に運ばれました。奈良の近くの山から陸上を運ぶより楽だったからです。
水を侮ってはいけません。

そういうわけで、地図の右端、島本町の灯籠は京都都市部からの流れだろうと思っています。
一方、高槻の灯籠たちはというと、これも左寄りと真ん中とで別の流れを汲んでいるんじゃないかと想像しています。

地図の真ん中に並んでいるのは、上2つが成合というところと下2つが安満というところで、成合は長岡京市の山の上にある柳谷観音という神仏習合のお寺への巡礼途上です。この柳谷観音は昔大人気だったようで、今も、明治大正期の講の看板が無数に掲げられています。
もちろん柳谷観音は柳谷観音であって愛宕神社ではないですが、高槻から見れば北の山の上の寺社仏閣ということで、もう一つ先にある愛宕神社に見立てていたんではないか、つまり、気持ち的に愛宕神社の目の前の遥拝所として機能していたのではないかというのが、現代の邪推です。

安満に至っては、愛宕神社と称する小さな祠すらあります。
つまり、はるか遠いの山の上に愛宕神社があってそれはさすがに遠い。
では、ということで手が届くレベルの山の上に仮想の愛宕を設置。
さらに、日々の生活圏には我らの愛宕を設置。
そういう発想。

で、地図の左側は浦堂というところですが、地図を見るとわかるように、成合から北に続く道(真ん中)と、浦堂から北への道(左側)とは、まったく別ものなのです。地図の欄外で合流もしていません。
成合の道は柳谷観音を経て長岡京市へ行き、浦堂の道はかなり突き進んだ末に亀岡にたどり着きます。

(ちなみに、島本町から北へ続いて見切れている道(右側)も、浄土谷というところを経て、成合からの道に合流して長岡京市にたどり着きます。浄土谷にも一つ愛宕灯籠はあるので、そういう意味で、島本町の灯籠は京都市街から川経由ではなく、長岡・浄土谷の流れを汲んでいる可能性もあります。もう何でもありみたいな感じですが)

つまり、浦堂にある灯籠は、市内に203基を誇る亀岡の直系ということになるのではないかと。


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245_三島郡島本町高浜

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248_高槻市成合東の町

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249_高槻市成合中の町

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246_高槻市安満北の町

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247_高槻市安満中の町

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253_高槻市浦堂本町

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252_高槻市真上町

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251_高槻市殿町

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250_高槻市大手町


251_は、西国街道の芥川宿の出入り口です。なので、亀岡直径とはまた別の流れを汲んでいると思われます。

250_は、キリシタン大名高山右近が有名な高槻城のものすごい城下です。大手町というくらいだし。

色んな流派が流れ込んで混然一体の愛宕灯籠絵巻を成す町、高槻。
侮れない。ものすごい面白い。




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# by fdvegi | 2017-10-15 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

向日市の愛宕灯籠

向日市です。「むこうし」と読みます。
激辛商店街として関西ではちらほらローカル番組に登場します。
が、敬意や親しみを込めて激辛の向日に言及し、あるいは訪ねたりする関西人を、ぼくは知りません。
残念です。

かつては長岡京という都が置かれた場所でした。
なのに「長岡京」という言葉は隣の長岡京市に取られてしまったし(なんで?)、そもそも都自体が10年しか置かれてなかったしで、イマイチ盛り上げきれない感が強いです。

さらに、大阪北部(北摂地域)や京都では、良くも悪くも「向日町けいりん」が有名ですが、その競輪場もなくなるとかなくならないとかで長年ごたごたやっており、率直に言ってぱっとしません。
さらに言えば、1972年に市制が敷かれて40年以上を経た今でさえ、旧町名である「向日町(むこうまち)」が幅をきかしているという、もう何が何だかわからない全国屈指の狭小市です。
かてて加えて、2017年10月、ヒアリ上陸のニュース。

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と、そんなせいもあって藁にもすがる思いなのか、あるいは単に歴史への関心が高いのか、西国街道の整備とか愛宕灯籠を含む灯籠の移設など、「半径〇メートル以内」感のある歴史的事柄への取組みぶりがすごいです。
最初に挙げた「広報むこう」もそうですし、市の写真ニュースでも取り上げているほか、京都新聞でも取り上げられていました。
他にすべきことがあるのではないのかと、愛宕狂いのぼくですら、そんな思いがよぎります。


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086_向日市寺戸町

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244_向日市寺戸

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076_向日市寺戸町

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085_向日市寺戸町

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080_向日市寺戸町

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077_向日市寺戸町

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079_向日市寺戸町

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072_向日市寺戸町

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078_向日市寺戸町

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071_向日市寺戸町

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070_向日市寺戸町

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069_向日市上植野町

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083_向日市上植野町

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084_向日市上植野町

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082_向日市上植野町

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222_向日市上植野町

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220_向日市上植野町

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221_向日市上植野町


市内だけで全部で24基あるそうです。市がそう発表しています。これはすごい。大原越え。
ぼくは未確定を含めて22基しか見つけられておりません。どこにあるんだろ。

084_は、まさに「広報むこう」で「石灯籠」と表現されていますが、083_とのセットということでとりあえず載せております。
085_と080_は、愛宕が読み取れないものの、ネット上の色んなところで愛宕灯籠と紹介されています。
個人的には、むしろ244_が興味深くて、正体を知りたいところです。

誰か教えてください。



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# by fdvegi | 2017-10-14 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

大原野・沓掛の愛宕灯籠

灯籠を追いかけ回しているうちに、あっさりと秋になってしまいました。
先日は十五夜の月がまぶしく、取り囲む雲には鈍い虹色が反映されていました。幽玄丸出しです。
冷えた夜気を感じながら熱燗を飲んでいると、炎天下の嵯峨・太秦がますます懐かしく、愛おしく思えてきます。秋の郷愁ですね。

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さて、大原野です。
長岡京市と京都市西京区洛西タウンの間に広がる、まさに大きな原野ともいうべき一帯。
長い間、長岡京市に出入りしていましたし、洛西タカシマヤにもよく行っていたので通過はしていたのですが、驚くほど意識に上がってこない構造になっていると思います。この大原野という場所。不思議です。

奈良に有名な春日大社がありますが、奈良平城京から京都長岡京へと都を移した際に、その春日大社を小さくして京都へ持ってきていました。
それが大原野神社といいまして、この大原野の奥の奥、京都盆地の西端、小塩山の山すそにあります。
夏場のジョギングで走りに行って初めて知りました。
歴史の古さとしては、左京区よりも西京区の圧勝なのかもしれません。

灯籠はその大原野神社の周辺と、よくわからないけど東側の一極に集中している感じでした。
小集落をひとつひとつ丹念に探せばもっと出てくるような気もします。
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090_西京区大原野南春日町


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015_西京区大原野南春日町

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010_西京区大原野北春日町

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089_西京区大原野北春日町

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014_西京区大原野南春日町


小休止。ここまでが地図の左側。大原野神社周辺です。
010_が一番わかりやすいところに立っていて、ジョギングのコース上です。
それまで左京区でしか意識していなかった愛宕灯籠を、京都市内の西側で初めて、しかも不意に見つけたものですから、頭では何となくわかっていたものの、改めて、分布の広域さに感心したのを覚えています。


この先は地図の右側。
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243_西京区大原野上里南ノ町

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242_西京区大原野上里北ノ町

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241_西京区大原野上里北ノ町

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238_西京区大原野石見町

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237_西京区大原野上里南ノ町


ここまでが地図の右側。大原野には江戸時代みたいな小さな集落が散在していて、そのいくつかに灯籠が残っていました。
家の軒先で明らかに崩れつつある238_とか、我ながらよく見つけたなと思います。
242_は愛宕かどうか少し迷いはあるものの、小集落での密集感や位置関係からすると、そうであってもよかろうと思われます。確かなことは、はい、わかりませんが。


最後に沓掛に一つ。地図の左上の一つです。

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009_西京区大枝沓掛町


亀岡市との境界で、山陰街道の玄関口です。
亀岡市には市内だけで203基の愛宕灯籠が確認されています(「愛宕灯籠 私たちの身近にある石造物を訪ねて(平成6年)」より)。
一大集積地である亀岡から山陰街道を経由して京都市内へ流入して来たのか、それとも京都市と亀岡市それぞれで拡散・分布した灯籠が、この場所で面と向いて向き合ったのか。
どういう展開だったのだろう。




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# by fdvegi | 2017-10-07 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

山科の更新

山科で新たに一つ見つかりました。
勧修寺という大きなお寺の入り口に何気なく立っていて、どうして見過ごしたかな、というのが正直なところです。

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254_山科区勧修寺仁王堂町


火袋(火をつける四角い部分)も笠石(火袋の上に載っているふた的な部分)も宝珠(笠石の上に載ってるつまみみたいな部分)もなく、もはや灯籠の体をなしてません。
さすがにこれは「各地に残る愛宕常夜灯」に載っていなくても仕方がない気がします。
ちなみに、この左隣には別の種類の灯籠が3つくらい並んで建っていて、全体として移設されてきた感がありありとしています。


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# by fdvegi | 2017-09-25 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

物集女周辺の愛宕灯籠

桂駅から西に漸進すると南北に通っている道があります。
それが物集女(もずめ)街道で、東西に走る山陰街道と西国街道を、京都盆地全体のほぼ西端でバイパスする役割を果たしています。
物集女周辺というのは、より正しくは物集女街道沿いの、ということになるでしょう。
物集女という名前ですから、有名な大原女と同じように、そういう女の人たちがいて、それが地名に変わっていったのかと何となく思っていたのですが、どうも全然違うようです。

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※網かけ部分は既出です(桂周辺)


「もずめ」の「もず」は、大阪府堺市百舌鳥(もず)が元になっているとのこと。
大阪南部に住んでいた人たちがここへ移り住んできて、そのために地名も「もず」関係になったというのです。
その「もず」の人々が何者かというと、土師氏(はじし)といって土木造営集団だったそうです。有名な仁徳天皇陵など、大阪南部に大きな前方後円墳がありますが、そういうのを作る人たち。
物集女のある京都盆地の西側一帯もまた古墳の宝庫になっており(乙訓古墳群)、このことが「もず」の人々がここにいたことの有力な根拠になっているようです。

さて、ここで気になるのは、吉祥院で紹介した菅原道真のひい爺さんです。そう、土師古人でした。もろに土師ですね。平安京遷都に際して奈良から京都に引っ越してきて、吉祥院の地をもらったという話でした。

どこかに8世紀末の記録が残っているそうで、それによると、土師さんという一族(土師氏)には4つの大きな分家的なもの(氏族)があったそうです。
今の奈良市内の菅原町と秋篠町あたりに居住した二氏族、大阪府堺市百舌鳥と南河内の古市あたりを本拠とした2グループ。
彼らが相次いで改姓願いを提出し、新しく菅原氏、秋篠氏、大枝氏が誕生したんだそうです。
8世紀末ということですから800年頃、ちょうど794年ウグイス平安京ができたばかりの頃ですね。

つまり何かというと、同じ土師さんという親戚筋の人々がいて、奈良と大阪南部に分かれて住んでいた。
奈良の土師さんは吉祥院に来て菅原さんに改姓した。
それよりも前から大阪南部の土師さんは京都盆地の西側に来ていて、土地の名前を故郷である「もず」に変えていた。
ということのようです。
大枝という名前も、物集女の北にある山や地名に残っています。

さらにさらに、京都盆地西部「もず」の土師さんに土師真妹という女性がいました。この人が高野新笠という娘を産みました。そして、高野新笠は息子を産み、それが後の桓武天皇になりました(ここのサイト にいろいろ教わりました)。
桓武天皇が何をしたかというと、奈良の平城京を引き払って京都西部の長岡京を作り、さらに長岡京を引き払って平安京を作ったのです。

そうなるとですよ、桓武天皇は大阪南部系の土師氏の流れなので、最初は、大阪南部系の土師氏の作った京都盆地西部に都を移した。それが長岡京。
→しかし、いろいろ失敗した。
→それでは、と今度は京都盆地中心部に都を移そうと思った。それが平安京。
→長岡京は、大阪南部系の土師氏関係で失敗したので、今度は奈良系の土師氏を呼び寄せた。それが土師古人さんだった。
→せっかく来てくれた遠縁の土師古人さんに、お礼として吉祥院の土地をあげた。古人さんは苗字を菅原に変え、菅原道真が生まれた。
と、まぁそういう話になるのでしょう。

そもそもどうして大阪南部の土師さんたちが京都西部にやって来たかはわからぬままですが、とにかく京都盆地西部(乙訓地域)と京都市内南部(吉祥院)は、親族関係にあったということのようですね。

いや、長くなりました。
愛宕灯籠とは全然関係ないんですけど、とにかく歴史が古くて因縁深い土地のようです。

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073_西京区山田上ノ町

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074_西京区松尾上ノ山町

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160_西京区山田上ノ町

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088_西京区御陵塚ノ越町

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038_西京区樫原上ノ町

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037_向日市物集女町

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087_向日市物集女町

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075_西京区樫原杉原町

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097_西京区樫原内垣外町


073_は生垣に飲み込まれすぎてほとんど目視確認できないのですが、「愛宕」の確認がなされているそうです。

075_は「愛宕」確証がないのですが、樫原三ノ宮神社の中です。

097_もまた「愛宕」確証がないというか、むしろ違う字が刻まれているので明らかに違うのかなと頭でわかってはいるのですが、三ノ宮神社にすぐ隣接する洞雲寺というところにありまして、愛宕神社って元が白雲寺という寺ですので、つい「〇雲寺」系って外せなくなってしまうのです。





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# by fdvegi | 2017-09-23 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

久世周辺の愛宕灯籠

桂駅から少し南下し、桂川に沿って東に寄ったエリアです。
桂川の向こうは吉祥院です。

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国道171号線と東海道新幹線が並行して南北を貫いており、感覚的には、生活の息吹なんてあり得ない場所だと思っていました。
が、ここでもだいぶ驚きました。いざ行ってみると、生活感がありありとしています。すごい。

有名な西国街道が通っている場所ですから、交通の要衝だったのですね。
橋のたもとには今も(元は)川魚料理屋(だったと思しき店)が残っていて、興味をそそられます。
渡し船を待つ人が近くに宿をとって、腹ごしらえをしたり、何かお楽しみを見つけたり、そういう場所でもあったのかもしれません。

新幹線の線路と大きな国道に挟まれた一帯にいたっては、ほとんどデッドスペース的な先入観的がありましたが、ここにも、南北垂直の線路・道路作りの横暴を暴くような、南西から北東に抜ける旧街道の痕跡が残っていました。
大きな農家が軒を連ねていたのだと思います。

京都郊外は、昔から近郊農業によってわりと裕福だったという話を聞いたことがあり、話自体は長岡京市を例に出してのものではありましたが、久世周辺もそうであって何ら不思議はありません。

面白い場所です。

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170_西京区牛ケ瀬青柳町

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171_西京区牛ケ瀬弥生町

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174_南区久世上久世町

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173_南区久世上久世町

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172_南区久世上久世町

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176_南区久世川原町

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175_南区久世殿城町

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180_南区久世上久世町


180_が愛宕灯籠だったと主張する理由は正直ないんですが、元は灯籠だったのではないかと思われる石柱の上に、後になって街灯が設置されている様子が、土地に灯籠の系譜が息づいているようで面白いです。


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# by fdvegi | 2017-09-22 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

桂周辺の愛宕灯籠

さぁ、いよいよ桂川を渡ります。
橋を渡るといえば、(少なくとも初期の)ドラゴンクエストでは橋を渡ると途端に敵が強くなりました。
北斗の拳では、橋ではないけど小舟で渡った修羅の国で、それまで相当強かった人がいきなり脚を一本もがれて登場し、次いで、煙の先からその片脚を手に仮面の男が現れました。

どういうわけか、それらの印象がやたらと強く残っていて、大きな水を渡るのは今もいたずらに緊張を強いられます。
この言い知れぬ恐怖は、三途の川の話とか、因幡の白兎の話とか、意外と生命原初の記憶なのかもしれません。
閑話休題。

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桂は別に恐怖の場所ではありません。
有名な桂離宮があったり山陰街道が通っていたりと、歴史の趣き深い場所でした。
桂川をはさんで西京極と隣り合っています。

それまでほとんど行ったことがなく、行ってもせいぜい桂駅でしたので、驚いたというのが正直なところです。それも心底驚きました。ものすごい古い。

しかし考えてみれば、なるほど、東に京都市街、北に嵯峨・嵐山を擁しており、交通の要衝にならないわけがありません。

灯籠もかなりたくさん見つかりました。
まずは、桂駅の東側(右側)から。

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147_西京区桂徳大寺町

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148_西京区桂徳大寺町

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163_西京区桂久方町

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162_西京区桂春日町

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091_西京区桂朝日町

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164_西京区川島北裏町

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168_西京区下津林楠町

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169_西京区下津林楠町

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157_西京区桂徳大寺町

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167_西京区下津林楠町

ここで小休止。
162_が吉祥院で言及した春日神社の対になっている愛宕灯籠です。かなり珍しい例だと思います。
遊び心があるか、特にこだわりのない神主さんが設置(を許可)したのでしょうか。

167_は、パッと見は非常に愛宕灯籠的で、この近くにも愛宕灯籠があって、しかも明治元年の設置です。
なのに、「愛宕」の文字が見えない。
非常に微妙なところなのですが、確証なし例としておきます。

次から、桂駅の西側(左側)です。

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064_西京区上桂東居町

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008_西京区上桂西居町

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161_西京区桂乾町

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092_西京区桂巽町

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166_西京区川島玉頭町

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165_西京区川島玉頭町


以上、右京区が出所の愛宕灯籠を、西京区にて、あえて東側から紹介しました。
西京区は、地味に、京都市内のどの区よりも数が多そうです。





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# by fdvegi | 2017-09-21 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

左京区の愛宕灯籠 まとめ

左京区全図とともに。
右京区の山の上の愛宕神社の灯籠が左京区にもある。何と不思議なことだ。
そう思って捜索を始めましたが、いやはや、

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全部で80基もありました。

一部「愛宕」の確証のないものもありますが規模感としては力強いですし、網羅性という点では完ぺきに近いと思われます。

都市部を除けば集落は基本的に山沿いにあって、本当に山間部的な場所を除けば、愛宕灯籠のない山あいの集落はおよそ見当たらないわけです。

「愛宕(おたぎ)郡」という名前は平安京の前後からあって、現存する灯籠や常夜灯が建てられるはるか前のことではあるのだけど、それでもやっぱり、「愛宕郡」の名前の背景には、当の愛宕山からはるかに離れているにも関わらず、なおこの地に「愛宕山」の何かが網羅的に・一大勢力として存在していた、その驚きや畏敬の念が込められているのだと、そう思いたくなります。




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# by fdvegi | 2017-09-20 00:30 | 京都在住 | Comments(0)

大津市南船路の愛宕灯籠と湖西のまとめ

南船路という場所があること自体が不思議じゃないでしょうか。
北側に隣接するのは北船路で、南北に「船の道」がある、と。
大きな湖があるし、実際、漁港もあるので船がたくさんあるのはわかるとしても、それにしたって「船路」なんて名前にするほどでしょううか。
同じことばっかり言ってますが、不思議です。

見取り図は、湖西一帯のものにしました。
上から、荒川3、木戸6、南船路1、和邇5+1です。
こうしてみると、なるほど西近江路に沿って点在しているのがわかりますが、和邇だけが群を抜いて水辺で、それ以外は水から離れているというか、気分的に山に沿っているという気がします。
意外と、全然違う文化圏なのかもしれません。

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南船路で見つかったのは一つだけです。
いくつかあると、そのうち一つ二つで「愛宕」を確認できなくても類推認定できますが、一つだけだとそうもいきません。
特に、この近辺には「秋葉灯籠」もちらほらと立っているので注意が必要です。
幸いにも、うっすらと「愛」が確認できます。

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232_大津市南船路


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# by fdvegi | 2017-09-16 00:30 | 京都在住 | Comments(0)